「画家の晩年の作品はなぜ狂気をはらむのか?—ティツィアーノ展」

「画家の晩年の作品はなぜ狂気をはらむのか?—ティツィアーノ展」

2013年5月18日

 たとえばカラヴァッジョなら、その絵を見て「現代」を感じることができる。絵画でありながら映像的、しかも現実感があることが400年以上の時を経ていながら、それを現代的なものにしているだと思う。

 しかしティツィアーノはどう受け取ったらよいのか?

 ルネッサンスの巨匠、バランスのとれた完璧な絵画、それとも色彩のなんともいえない品のある深さ、などなど。しかしあまりに遠すぎ、あまりに違いすぎる。あまりに違いすぎて取りつく島がない。こういうことは西洋絵画のいわゆる巨匠といわれる画家の絵に感じる戸惑いでもある。でも気になる。なにかが引っかかっている。

 ティツィアーノ、とくにその最晩年に描かれた絵画「ピエタ」(図1)を、十数年前にヴェネツィアのアカデミア美術館で見た時からその引っかかりは続いている。四角い大きな画面に荒いタッチでキリストが死んだ時の情景が描かれているのだが、そのタッチの荒 さがペインタリーで、主題はともかく“今、絵を描いている”臨場感が見るほうに眼に入ってくるような絵である。いや、主題などはどうでもよく、その悲劇的 な感情やばらばらとも言えるイメージが今そこに出てきた瞬間、その瞬間の絵を描くことだけをやっているのではないか、と思わせる。それが一足飛びに現代と 繋がって、見るものを興奮させるのではないだろうか。

①「ピエタ」1570年代中期
①「ピエタ」1570年代中期

 そんな思いをもってローマの「スクデリエ・デル・クイリナーレ」で開かれている「ティツィアーノ」展を見に行ったのである。(3月24日、会期は6月16日まで)

 調和的ではあるがただ美しいだけではない官能的な色彩の画家である。

 しかし晩年の狂気をはらんだ絵の展開はそんなことばでは表しきれないものをもっている。胸騒ぎを覚える。なかでも縦横2メートル以上ある大画面に描かれた「マルシュアスの皮剥ぎ」(図2)は尋常ではない。逆さ吊りのマルシュアスはサテュロスで、アポロに演奏合戦を挑んで敗れ、その厚かましさ故に生きながら皮を剥がれた・・・そのとなりにはティツィアーノの顔をしたミダス王がいてその後ろにはバケツを持ったサテュロスがいる・・と説明はあるが、正直なところ皮を剥ぐという行為ばかりが異常に目立ち絵全体が狂気と混乱に満ち満ちている。それはそのまますぐれた絵画がもつ特徴でもあり現代のものでもある。ディオニソス的なもの(サテュロス)に対するアポロの勝利を見ているミダス王は果たしてティツィアーノの意図と重なるものなのかどうか?下をうつむいている様子に芸術の傍観者的限界を感じ取る評者もいるが、わたしはそういう読み取り以上に、逆説的にディオニソス的なものに引かれてしまう画家のありようが率直にでている作品として見たい。理性の勝利を歌いながら狂気と混乱の渦のなかに絵は存在している。その意図せぬ現れが“引っかかる”原因で、それは“魅かれる”原因でもある。

「マルシュアスの皮剥ぎ」1570−1576年頃
②「マルシュアスの皮剥ぎ」1570−1576年頃

 画家の晩年の作品はなぜかように狂気をはらんだものとなるのだろうか?

これは先述の遺作(正確には死後、弟子のパルマ・ジョーバネが一部加筆)となった絵画「ピエタ」にも共通するところで、やはり荒いタッチが制作中の絵画を見るように生き生きしているのだが、何と言ってもそのタッチに現れるえのぐが官能的である。異常な光景とえのぐの官能性はそのまま現代の絵として通用し、見るものの眼を刺激する。その刺激はどこか脳内の片隅にあったものを思いださせるような、あるいは隠されたイメージを思い起こさせるような刺激なのである。

 わたしはそこで、展覧会とは関係ないひとつの画集に眼をひかれた。それは「L’ultimo  Tiziano」という題名の本で画集には違いないのだが、ティツィアーノの作品をX線撮影で取ったものを多くのせている本であった。それはティツィアーノの晩年の作品とも共通点を持ち、現代とも繋がっている“絵のX線写真”つき画集である。(図版3)X線写真だから白だけがおおざっぱなタッチで残りあとは黒っぽい画面が残るばかりなのだ。けっしてティツィアーノの絵を再現するものではないが、その調和の全体性から欠けたものがあり残ったものがストレートに現代に響く。

「ピエタ」の部分X線写真
③「ピエタ」の部分X線写真

 それはわたしたちの“欠けたもの”を暗示し、なおかつそこに生きているリアリティを感じさせるものでもある。晩年の狂気じみた絵にも通じるものだ。

 X線の目、それは確かに多くの情報を欠いた目である。しかしそれが“目”であることは変わりなく、そこに共感を寄せてしまう自分の目は何なのか、考えざるを得ない。わたしの目はもうX線のようにある部分しか見えないのかもしれない。

 画家の晩年もまたその目のありように似ている。彼はもうすべてを見ることはないのだ。その欠損と、豊かさへの飽くなき欲望が併存する。それは必然的に脳内の片隅にある記憶を呼び覚まさざるを得ない。脳が欠損を補い、想像をもって全体性を回復するところとするとそれは至極当然のことであるが、絵画はそれを振り切って成立を目指す極めて肉体的な作業である。そこに狂気と混乱が生じる。矛盾が生じる。

⑤「マルシュアスの皮剥ぎ」部分、ミダス王のうつむき
④「マルシュアスの皮剥ぎ」部分、ミダス王

 これは理性でコントロールできるようなものではなく、むしろそのアンコントロールなところにこそその画家の神髄が現れ出る。コントロールによる絵画の敗北こそがむしろその存在の意味なのではないだろうか。「マルシュアスの皮剥ぎ」のミダス王(ティツィアーノ)(図4)のうつむきとはそういう意味なのではないか?

 これが今回の結論である。

 わたしの興味はしかし依然として絵のX線写真にある。実際の絵とパラレルに存在するもうひとつの絵の世界は“今”に続いている。

  *参照⇒https://nagasawahideyuki.net/news/2825.html