絵をつくる時の距離、これは絵を見る時の距離でもあるのですが、これに関しての論はあまり見たことがありません。山本和弘氏がわたしの絵画に関して書いた論文『無限層の絵画、あるいは豊かな絵画』がそのことに関して言及したのが2008年のこと、写真や他の分野などにとってはむしろ身近な問題なのかもしれませんが絵画に関してはあまり聞いたことがありません。しかしわたしにとっては重要な問題です。
絵に接近してかいているときに見ているものと、少し離れてみたもの、さらにもっと遠くに離れてみるものとでは大きな違いがあるからです。キャンバスに近いところで見ているものを仮に“触覚視”としておきます。ここでは全体像は見ることはできず、その部分しか目はとらえることができません。しかしキャンバスの肌理とかえのぐのタッチ、その肌触りのようなものは克明にとらえることができます。まるで触っているような視覚、触覚的な視覚ですから“触覚視”としました。(通常使われている視触覚とは区別)*①
そこから少しずつ離れるとキャンバスに描かれているものがどういうものなのか少しわかってきます。でも反比例するように触った感じは遠のいてしまいます。*②
そしてもっと遠くに離れると絵はかなり違って見えてきます。四角い枠のなかに描かれたものの“すがた”が現れてきます。その絵の全体が見えてくるのです。けれどもその表面の肌合いはわからなくなります。これを“視覚視”と呼ぶことにします。*③
絵をかくひとは、極端に言うとキャンバスの前を行ったり来たりしながらこの“触覚視”と“視覚視”を繰り返しひとつの絵を完成するのですが、それは境目がはっきりしたものでもありません。あっという間に行ったり来たりするわけですからこの行動はまるでズーム付きのロボットカメラのようなものです。加えて横にも移動するので“斜め見”も取り入れながら絵を見ているわけです。これが絵の画像としては正面から見た1枚の完成図にしかならないのですから不思議といえば不思議です。
このことは見る側にも言えることであって、どのくらいの距離をもって作品を見たときにそれを絵だと認めるのかとても気になります。というかひとつの立ち位置からだけではなかなかその作品はつかめないわけですから、見る人たちが絵の前でどのように動いているのか興味あるところです。
トーマス・シュトルートというドイツの写真家の作品に“美術館”シリーズがあり、それは美術館の名作と一緒にそれを見る観客も写っていて、これは絵との距離を考えさせるいい例になります。*④
いかに名作の絵画といえどもそれは今を生きるわたしたちに見られて成り立つものであり、そこで始めて美術館という収蔵の場から、見られるものとしての絵が立ち現れるのですからこの視点が必要なことは言うまでもありません。彼の写真はこうした時間的、歴史的な距離を感じさせるとともに空間のなかでの絵の距離も感じさせます。わたしたちはなぜ絵があるとそこに目を向けるのか?どのくらいの距離でそれを見たらよいのか?それらの写真では絵の図柄しかわかりませんが、そこ、つまり写真の現場(美術館)にはそうした疑問やなぞが飛び交っているのです。もちろんシュトルートはそれだけで写真を撮っているわけではないでしょうが、絵との距離やまわりの空間があってはじめて絵が成立することを感じさせる写真であることは確かです。
そういえば現在開催中の近美のフランシス・ベーコン展ではすべての作品にガラスがかけられていました。*⑤
いくつかは見づらいのもあったのですが、その理由が作品の脇に書いてあります。絵は金の額縁とガラスをかけて見せるようにベーコン自身が生前指定したそうです。おもしろい考えです。何かガラスの向こうには決して踏み入れてはいけない絵の世界があるようです。絵画と一体化はできないと言っているようでもあります。禍々しいものであるが、見る欲望の対象でもあるものとしての絵なのでしょうか。そこに絵と作者の距離があり、それは見る人にも跳ね返ってきます。その距離とはベーコンの絵のもっとも核心部分との距離なのかもしれません。
絵画の距離ということでここまで話を進めてきましたが、わたしが初めてこうしたことを考えたのは、以前フェルメールの絵を実際に間近で見たときでした。絵を追っていくとピントのあっているところがあって、そこは克明に描いてあるのですがちょっと視線をずらすと別の場所がピンぼけで、あれ、おかしいなと感じるのです。これはカメラの目とも違っていて、また別のところでは焦点があって徐々にそれが柔らかくなっていたりはするのですが、そうかと思うと唐突に手の描写がぼんやりしていたりします。*⑥
フェルメールがカメラオブスキュラを使っていたかもしれないことや少なくともそれがあった時代に生きていたことはよく知られていることで、その論もたくさんあるのですが、(注1)それらは実際にフェルメールの絵を見たときにこちらが抱く不思議な感情を説明してくれるものではありません。
それは自分がカメラになったような感じでしょうか。最初に“ロボットカメラ”と書いたのですが、自分がズーム機能をもったカメラになって絵を見ているようです。つまり絵との距離でいうと、自分が動かずして絵が遠くになったり近くになったりしているようなとても変な感じでめまいを感じるほどなのですが、それでいて絵全体は完璧なものとしてそこに見えています。こんな不思議な体験は絵でしかできないでしょう。絵がそのように見られて成立することをフェルメールはわかっていたのだと思います。
つまり絵は多様な距離をもって見られて成立するもので、固定された視点からだけでは成立しないということにほかなりません。絵の図版があまりにも絵と違った印象をもつのは無理もないことです。(注2)
絵との距離はつくる側、見る側にとって、ともに存在します。心理的に存在するのではなく物理的に、そして時間、空間的に存在しています。
つまりこれは極めてフィジカルな問題で、これが欠落すると絵の文学的な解釈や心理的な解釈がはじまって絵の姿がゆがめられていくのではないでしょうか。
(注1:スベトラーナ・アルパースの「描写の芸術」はカメラ・オブスキュラとフェルメールの絵画を論じていて興味深い。カメラの眼はそこにあるものを均等に映し出す。主観でものを見てしまう人間の眼とは違った光学的視点だ。ケプラーの眼の研究を引き合いに出しながら、科学と芸術が同時に獲得した“眼”のことを展開しているのが興味を引く。現代にあっては、絵画を見るのに写真的、映像的視点は欠かせないものになっているが、そういう見方の始まりがフェルメールであった。)
(注2 :ボードレールが「なぜ彫刻は退屈なのか」のなかで述べている“絵画はひとつの視点しかもたず、排他的かつ専制的だ。だから画家の表現は、はるかにもっと強い”ということばは、絵画は画家の見た見方(視点)以外は許さないということでもあるが、その“ひとつの視点”とは単純なひとつの場所としての点ではない。むしろ複雑な視点、時間や空間の絡まった視点を“ひとつ”にしていることが特異と言える。)