五美大展講演会「今、社会と美術を考える」

2013年2月26日

 五美大展の最終日、2月24日(日)に国立新美術館3階講堂において「今、社会と美術を考える」というシンポジウムが開かれました。今年の展示の幹司校が武蔵野美術大学ということで、美術系の学科が中心となって決めたテーマです。モデレーターに田中正之教授(美術館・図書館館長)、パネラーに池田光弘、手塚愛子、中崎透、冨井大裕らの若手美術家を迎えての企画でした。

 主催者側の簡単な紹介のあと田中氏がこのようなテーマを“なぜいま考えなければいけないのか”“美術に社会性はあるのか、それは社会の役に立つのか”“あるいはそのような問いかけに対して美術は何をどう表現するのか”などの問題が提起されましたが、もちろんそれは2011年3月11日の震災と原発事故を受けての問題であることも説明されました。

 それをめぐって田中氏が最近見た展覧会のことも紹介されました。水戸芸術館での「高嶺格のクールジャパン」展(塑像の着ていた“外套”の脱ぎ捨てられた意味など)、畠山直哉の写真集「気仙川」(近代芸術の理解の枠組みをこえてつくることの意味)、「アーティストファイル2013」展の志賀理江子の写真(その土地や人間とともに表現することの意味)が提示され、震災後のアートのあり方が変わってきたことに彼自身が動かされた経緯が丁寧に語られました。

 そして4人のパネラーに発言が振り向けられたのですが、まず池田光弘さんは自身の絵の体験から「外部と繋がったときに納得がいった絵ができた」とし、自分のなかだけの問題ではなく、“そと”と繋がることこそが自分のなかのものを引き出すことにも通じることを発言しました。現在は“終わりなき日常”から“非日常”に入り、そこで自分の最近作も変わってきて、その意味を考えていることなどが率直に語られました。

 その次の手塚愛子さんは現在ベルリンに在住し制作している体験をふまえ、ヨーロッパでは美術そのものがポリティカルであるとして、それは「問いかけがあること」と自分では解釈している、と発言しました。日本では、美術はポリティカルであるというコンセンサスはあまりありませんが、この率直な指摘はとても有効でした。五美大展の全体を見れば、多くの美術がいかに趣味の域に囲われているかもわかり、そのような期待をもつ社会も透けて見えてきます。それはそれで一理あるのですが、美術が個人と世界を結びつけ、わたしたちの生活になくてはならないものと考える人間にとって、美術はポリティカルであって当たり前、だからこそ社会とのつながりもでてくるのであって、それら多くの意味を含んだ発言でした。

 さらに中崎透さんは自分たちのユニット「ナデガタ・インスタント・パーティー」による「パラレル・スクール」(2008年)という“フィクションドキュメンタリー映画”の画像を流しながら、緩やかな結びつきをもった人たちが集まってワークショップのような、合宿のような、単なる集まりでもあるようなアートプロジェクトをやったことが報告されました。役割を決めた虚構のはずがその時間が過ぎていくにしたがって、虚構か本物かわからない状態になってきたことがその映像からも読みとれ、まさに美術が社会のなかで生きることへのひとつの提示があったように思いました。ここでは社会を変えることが美術に内包され、それがごく自然であるように普通に表現されています。イデオロギーに代わって緩やかな結びつきや遊びとともにそれが肯定されているところが中崎透さんのいいところでした。

 最後に発言した冨井大裕さんは唯一彫刻学科の出身(他は油絵学科出身)で最近では横トリの“画鋲の作品”が印象に残りますが、田中氏の「震災後どう変わるのか?」という発言を受けて「自分の制作は何も変わらない」と発言しました。これも重要な指摘でした。ある意味では変わらざるを得ないし、またある意味では変わらないこと、それは震災後に多くの美術家が作品をつくれなくなったこととも関係がありそうです。いま美術家はその存在の意味を問われているのですが、それに対するひとつのあり方を冨井さんは提示しました。

 発言のあと、いくつかの質疑や田中氏や会場の参加者からありましたが、とても時間が足りず、もっともっと議論したいところでタイムアウトとなりました。田中氏は最初のブリーフィングのなかで「止揚」という言葉を頻繁に使いましたが、若手作家側から返ってきたものは「矛盾」そのものを提示しそこに生きる場があることを暗示するものでした。それは「止揚」にいく前のもっと根源にあるヒントのようなものであり、ここで生きることの肯定なのかもしれません。そのことに美術の未来を見た気がしました。

 “講演会”という名前自体が、誰か立派な先生の講演を想像させて足が止まってしまうところがあるのですが、今回は先生(田中氏)がひとつの基本的な考えをつくり、それをめぐって矛盾やカオスも含めた議論が飛び交うといった美術大学ならではの議論ができたことに大きな意義があると思いました。