「西洋人は、東洋人にとって地理的には反対の世界、すなわち裏側に住むばかりでなく、思想的にも反対の世界に住んでいる。われわれ日本人が空気のように感じている精神世界は、彼らにとっては、とても分かりにくい世界であって、彼らが物質世界をいかに深く生きているかということは、われわれには完璧には分からないのではないかと思われる。」(この著は1931年にパリで出版され、今またマクロビオティックの原点として注目されている)
よく言われることでもあるが、あらためて首肯せざるを得ないことばである。
何よりも“われわれには完璧には分からないのでは・・”というところがずしりと応える。分かっているつもりが全く違っているのかもしれない、そんな不安な気持ちになる。それと逆に日本のマンガのことなどを考えるとなるほどそういうことだったのかと妙に納得してしまうところもある。
日本のマンガの世界は“精神世界”である。仮想的である。平安時代の絵巻物から現代のマンガ、劇画にいたるまで西洋由来のリアリズムとは一線を画して、架空のできごと、つまり“精神世界”と言ってもよいものがそこに展開されている.これはフランスのマンガ、バンデシネなどと比べたらその違いが際立つ。たとえそれらが架空の物語だとしても現実の“物質世界”から離れてはいないからだ。わたしたちにとって“普通”であるマンガも、日本人特有の“精神世界”の産物と思うとなにやら楽しくなる。
大学のわたしのクラスでもファイン系志望に混じってマンガ志望の学生が何人かいるがそれ以上に多くの学生がマンガ、あるいは落書き的なものをすらすら描くことができてそれがまた質が高い。こんなにいろいろなマンガや落書きを描ける美大生は世界中どこを探してもいないだろうと思われる。
ではその学生たちはかの“物質世界”のことをどう感じているのだろうか?
彼ら彼女らが作品のことを語ろうとすると、多くが必ずと言っていいくらいその描く動機とか心情を話す。あたかもそれが絵を描く理由として説明されれば絵も正当化されると言わんばかりである。たしかにそれも重要かもしれないが、そこでは自分が直面している絵や表面、絵の具の“物質的側面”は消えてしまっている。だから図像第一主義がここで芽生える。そして反対に物質的側面を考えようとすると、こんどはシェルマチエールやモデリングペーストをこてこて塗って壁のような表面をつくり、それをマチエールとしてしまうのである。ここにはマチエールを「絵肌」と訳したような繊細な神経は見られない。マチエールのためのマチエールだけが残されてこれもやはり絵とは関係なくなる。正しいマチエールというものがあるわけではないが、絵の持つ表面の表情は大切で、西洋のように絵の具が厚く塗ってなくても、絹や和紙の表面にうすく描かれた絵、たとえば宗達のたらし込みの絵などは見ていても飽きないものがあるはずなのに、これを飛び越えて単純な物質世界に飛んでしまう。
わたしたちは本当に“物質世界”というものを考えられないのかもしれない。
スポーツの世界ではどうなのだろう?シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した高橋尚子選手がおもしろいことをその後のインタヴューで語っていた。スパートしていけるかどうかを「自分の体に相談して走った。」と言うのだ。こんなことを言う選手は初めてだなと記憶に残っている。自分の意思だけではなく体のことを話す、つまり体は必ずしも自分の思い通りにならないことを知っているからこそこのようなことばが出てくるのだろう。たぶんスポーツ選手はいち早く先ほどの“物質世界”に直面するのだ。
Physicalという単語には自然の、物質の、形而下の、という意味とともに身体の、肉体の、という意味もある。私たちの文化にはこのような単語は存在しないのではないか。そのような考えがないのかもしれない。
肉体やその一部は言ってみれば、わたしのなかにある他者である。それはもっとも物質に近くアンコントロールなものなのだ。それを精神でコントロールしようとしてもそれはかなわない。言うことを聞かない肉体を精神だけでコントロールしても結果は悲劇でしかないだろう。スポーツの体罰問題もほんとうのところ、これが根っこにある。その誰もが直面する“物質世界”にいらだちを感じ一挙に“精神”の優位を打ち立てようとするのだろう。しかしよく言われるこうした精神主義の“精神”とは単純な幻想でしかなく、先ほどの言葉を引くなら、わたしたちが空気のように感じている精神世界にあって、いやが応でも直面さざるを得ない物質世界をどう受けとめたらよいのか、というのが、いまここにある問題ではないだろうか。
スタンリー・キューブリック監督の1964年の傑作「博士の異常な愛情」には印象に残るおもしろいシーンが出てくる。ピーター・セラーズ扮するストレンジラヴ博士の黒手袋をはめた右手が意思とは別にかってに動いてしまい、それを左手がおさえるのだ。右手はなおもナチス式敬礼をしたり、自分の首をしめたりする。このシーンは本当におかしい。何度見ても笑えるが、身体の不一致あるいは分裂がピーター・セラーズの楽しそうな演技(アドリヴ?)とともに輝いていて、なおかつ選民思想や戦後の米国の核開発がどういう由来できたかを暗示する怖いシーンにもなっている。
強引なわたくし流の解釈では、このシーンは“ものがつくられる瞬間”のことを言っているようにも思える。少なくともわたしは絵をつくるひとりとしてそう思う。手は頭が考えているようには動いてくれない。それどころかむしろ別人格のように振る舞うことさえある。それが悪いことかというとそうでもない。考えていることと振る舞いの誤差や乖離が逆におもしろいものを生み出すこともあるのだ。袋小路に陥ったときに肉体がその突破口を見いだすことはいつでもあり得るし、その裏切りこそがものをつくるときや絵画することの醍醐味なのかもしれない。(もっともこの誤差や乖離に気がつくには少々時間が必要だ。そのときはそんなことを気がつかないのだから。誰もが体験していることではあるが、それを気にしていては何もできなくなってしまうので“ない”ことにしてしまっているのかもしれない。)
わたしはかつて『サイボーグの夢』という展覧会を企画したことがある。PC全盛のなかにあって、肉体感覚を失いながらも完全なサイボーグにもなれず、かといってどこにもつながれていない一個の生身の人間にもなれない現代人はどういう夢を見るのか?フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に倣って言うならば、不完全なサイボーグ(わたしたち)は電気羊ならぬ“中途半端な羊の夢”を見るのではないだろうか、というのがこの展示の問題提起であった。もちろんこれは肯定的な意味でそう言っているのであって、完全サイボーグが見る夢よりももっと“誤差”を含みそれゆえに可能的なものとしてのそれなのである。(詳しくはブログの展示コンセプト「サイボーグの夢」を参照のこと)
この論にあてはめるならば、西洋の“物質世界”も完全には理解できず、かといってわたしたち日本人がかつてもっていた“精神世界”にも戻るわけにもいかないわたしたちには何ができるのだろう?ということになろう。わたしたちはそうした矛盾と葛藤のなかにいる。もっと言えばそこに可能性が潜んでいるとも言えよう。
奇妙な言い方になってしまうが、わたしたちはいまとても“弱い物質世界”を発見しつつあるのではないだろうか。そのことは矛盾をはらんだ肉体の発見でもあるがそれは西洋のように強いものではない。それはたとえて言うならば老化の問題とサイボーグをつなぐ視点の発見のようなものである。“弱い物質世界”はサイバー空間と親密な関係にあるから弱い肉体とサイボーグも難なくつながることが可能なのだ。
これは現実的な問題であるのと同時に美術の問題でもある。絵画の問題でもある。絵画は“もの派”ほどに“精神世界”にはいられない。(もの派は、一見物質世界の芸術のように見えるが、全く反対にそれは“精神世界”の芸術である。“もの”ということばは言い得て妙である。) その世界はちかしいものではあるがわたしたちはもう少し“物質世界”に直面せざるを得ない。それが先ほどの“弱い物質世界”である。“中途半端な羊の夢”を見るようなもの、誤差に満ち満ちた世界、一歩間違えればただの弱い見向きもされぬ世界である。しかしそれを肯定する論理を自分の中に打ち立てない限りその世界が見られることはない。
(追記:日本は世界でいち早く未来社会に突入した。これは科学の発展が導いたのではなく“精神世界”が導いたものだ。そこに突然2011年に津波、原発といった“物質世界”が現れはしたがその意味を本当に理解するのは難しいのかもしれない。)