C通信60. こたつとちゃぶ台のある折り紙宇宙船…開会式   KOTATSU and CHABUDAI space

C通信60. こたつとちゃぶ台のある折り紙宇宙船…開会式 KOTATSU and CHABUDAI space

2021年8月16日

証言F 「宇宙船オリヅル号の開発には日本人技術者の力によるところがおおきい。オリヅルはもともと2次元だから。それが惑星間飛行をして、目的地に着いたら3次元になるんだ。宇宙船の内部空間もこたつを利用して折り畳まれている。Kotatsuスペースというんだけれど、普段は2次元ながらスイッチひとつでか作戦や会議室にも居住空間にもなる。Chabudaiスペースというのもあってこれは主に食事と団らん用だね。もちろん生身の人間なんていないよ。人間は地球にいて宇宙船と全く同じスペース、こたつやちゃぶ台のあるところで生活しているんだ」

証言G  : 「開会式はなんともひどいものだった。オリンピックで何をしようとし、何を理念としてこの巨大スポーツ大会をするのか、全く打ち出せずにただただバラバラなショーを見せるだけだった。全体を貫くコンセプトがないのが致命的で、いくら日本の代表的なものを見せてもそれがなぜここに必要なのか必然もなく、ただ集めてもってきただけで、見ていて恥ずかしいぐらい何も考えてないことが露呈されてしまった。火消しと木組みのダンスも始まりのインパクト以上のおもしろさはなく、そこにタップダンスが絡む意味がない。同じように歌舞伎の「暫」にジャズピアノの上原がからむ意味も理解しがたい。だがここではあらぬ展開を想像してしまった。歌舞伎「暫」は身分の高い悪役が、善人に言いがかりをつけて斬り殺そうとしているところに、主人公が「しばらく」と言って現われ逆に悪人を斬り捨ててしまう。それをここにもってくるのは…。「しばらく、しばらくーっ、しーばーらくーっ」は「ちょっと待て」の意味だ。「そこのオリンピックちょっと待てえ!」と言い、それから一挙に身分の高いひとを斬りつけにかかるのか・・・とも想像してしまった。ハラハラドキドキの展開の可能性があった。しかし現実はただ歌舞伎の場面の短い切り取りを見せただけだった。                                                                                                                     これもあります、あれも出しましょう、と素人のように有名なものをお金をかけて並べただけ。つながりによってできるはずの驚くようなマジックがなく、それが最近のそれぞれの国での開会式の盛り上がりと決定的に違ってもいた。たしかに無観客のせいもあり盛り上がりに欠けてしまうのは仕方ないところでもあるが、それならこのコロナのことをもっともっととりあげたり、福島の復興への道が大変なことを取り上げてもよかったが、それもしない。世界的なアーティストの何人かに歌わせてその意味を強調するあたりは、狡い感じもした。多様性という題目に合わせて、自分たちのところからでたものではないものをイメージ的につないだだけの浅はかな選択。またこれらを映像でつなげていくのも安易にすぎた。映像が何回も挿入されてその場の臨場感をそいだ。これもかっこいいと思ってやっているのだろうが結果は逆。         日本には優れた演出家や映画監督、アーティストがたくさんいるのに、そうした思い切った演出を決め切れずに、責任をとらないお祭り屋さんが、お金を使ってお祭りのハートを逃したことが残念でならない。多様なものを並べるだけでは多様性でも何でもない。こういうのもあるか!という明確なコンセプトをもった演出が多様性を浮かび上がらせる」