ムサビ卒展ーひとつの視点(展示は終了)

2013年1月19日

ムサビ卒展が始まりました。現場からそのいくつかを取り上げます。

 下野薫子の絵画からは、展示空間にいい風が行き渡っているような印象を受ける。今までの試行錯誤を吹っ切って最後はあっさりと“いい瞬間”を捕まえた。このように絵が描けたらいい、とおもわせるストロークは少しも閉じることがない。

 古賀一樹の絵はどこか変だ。普通に見かける人や光景を描いているのにどこか変なのだ。そばに近づいてみるとえのぐも妙にしっかり塗ってあって楽しめる。その変な全体がいいと思う。

 佐藤貴恵の絵画にはえのぐへの愛を感じる。といってもそれはフェティシズムよりは、えのぐが絵をつくっていくエロティシズムに近い。今は薄塗り全盛の時代だが、そんなことはおかまいなしのえのぐのにゅるにゅる感の快適。

 光岡幸一のパフォーマンス(インスタレーション)は、そこに行ってのお楽しみ。部屋の前で待つ。音、ドアを開ける・・これ以上は言えません。最後にそこから出る時までのドキドキ感。中で何がおこっているのだろう?破壊?見るものへの感情?掃除機の音もここではクール。

 灰原千晶の「北極星を動かす方法をめぐって」−いくつかのタスク–という作品はわかりにくいが壮大だ。動かないものを動かす、という妄想力(想像力)と現実社会(日常)が絡んでせめぎあっている。想像力が社会のなかでどういう意味を持つのかも考えさせ、社会変革のためのインスタレーションとも受け取れる。

 三木麻郁の手回しオルゴール作品は、自然に自分の手でハンドルを回してしまう。そこに広がる音楽にならない音素としての音。別の壁には音とことばのコード表が描いてあり、奏でる音はことばに対応していることがわかる。静けさと自分がつくる音、そこから想像がはばたつ。

 辻元百合子の“アナクロニズム”は今の時代がいかに重層的に折り重なっているかを感じさせる。“ガロ”の時代を今に持ってきているような時代錯誤がありながら、やはり今にトンネルがつながっている。絵は時空を超えられるか。

 黒河希のえのぐの思い切った塗り方も今では少なくなった。大きく塗っているから絵は上下感覚を失い、あるところにないものが、ないところにあるものが出現する。塗ってできたものと描いてできたものとの混交、その気持ちよさ。

 伏島由恵の「自由の女神」はパリス・ヒルトンがモデル、と言うと“平凡”だが絵は平凡ではない。カスカスのえのぐ感が変な世界を作り出している。

 ほかにもおもしろい作品がいっぱいあります。