シュノーケル

シュノーケル

2019年9月10日

ぼくが今でも毎年シュノーケルをやり続ける理由。それはひとの時間と接する死の世界を体感できるから。

 海のなか、色とりどりの珊瑚に荒波が押し寄せ、さまざまの魚が群れ集うそこがどうして死の世界なのか?黒々とした海草が、海水の流れにいっせいになびくのはたしかに不気味だが、どうしてそれが死の世界なのか?

 その理由は、海のなかではひとは生きていけないから。シュノーケルはひとが生きていける世界と生きていけない死の世界との境界にある。むこうの世界に棲む生きものは、逆に海から出たら生きていけないのと同じことである。船で沖からその世界を覗き込めばあきらかである。ただし危険も伴う。知らないうちに風に流されたり、波に持っていかれたらヤバい。絶えず周りの状況を見て船の位置や風の状況を確認し、約一時間半ぐらい浮いたり休んだりしながら対応する体力もなければならない。夏にウエットスーツを着ていてもそのくらいが限度で次第に冷えてくる。

 それに比べればスキューバダイビングは全くつまらない。重装備で武装して

海の中の世界に入るのだからそこが死の世界であることもわからずに“さまざまの生きものがあふれたすばらしい世界”しかわからない。もちろんスキューバの危険性はあるがそれは装備上のことである。人間が入れないところに装備で入っているだけ。研究者らは仕方ないとして、こんなやり方で海を楽しむことがまかり通っていることが不思議でならない。

 文句はさておいてシュノーケルの楽しさは海と一体になれることでもある。

何もしないで波に浮かんでいるだけでよい。下に見える魚の群れと同じように波に揺れ動く。重量がない宇宙遊泳と同じ。高いお金を払って宇宙に行く必要はない。こんな身近なところにぼくらが生きていけない死の世界がひろがっているのだから。

 長い間いれば生命の進化の一端も見られる。いつも決まっていくところでは多くの魚に混じってウミヘビやウミガメが必ずいる。ウミヘビやウミガメは肺呼吸だから必ず海面にあがっていって息を継ぐ。と言ってもぼくらと違って海の中の生きものだからちょこっと海面に出るだけ、皮膚呼吸によっても酸素を取り込んでいるそうだ。

 この死の世界だって元はと言えば生きものが生まれた場所だ。酸素が大量にできてオゾン層が生成され、宇宙からの紫外線を防ぐことによってぼくらほ乳類が海から出て生きることが可能になった。まあ言ってみれば、生の世界も死の世界と隣り合っている。それを実感できるのがシュノーケルなのだ。

 ただ最近困ったことがある。基本的にいつもひとりで行くことにしているが、船で海に出てもらうときはたいていの場合はその主が案内もしてくれるからよい。しかしどうしてもこの海岸から入ってみたいと思うところを見つけたとき…その場合はタンクとか水の空ボトルに真水を入れて出た時に洗うよう備えるが…ひとりで海に入る時に躊躇することがある。なにかあったらどうなるのか?ウエットスーツを着て足ひれも付けているからそんなに体力は消耗しないが、それでもなにか不慮の事故はあり得る。

 今までそうしたことがなかったことが不思議なくらいだが、離岸流に捕まっても慌てない、危険を察知することに敏感になり、すぐ行動するくらいのことはやってきた。マナローラ、ニース、ニャチャン、サイパン、バリ、沖縄、奄美、とどこの海も特徴があったが、特にぼくが好きなのは日本の海だ。詳しい情報が手に入る、ということもある。そして危険性も考えて最近は友人を誘うようになった。これがなかなかいない。海岸の浅瀬でポチャポチャやるのとは違うのでそれがイメージできない。すぐスキューバをイメージしてしまうようだ。今年誘った友人は経験してビックリしていた。ただ泳力不足は否めなかった。

 来年もまた行きたい。同じような思いを持っているひといないかなあ?