作品「ゼロ時間」について:長澤 「切った石の切断面はどこにも出ていないんですよ。我々があれを見たときに石の表面しか見えないですね。その裏返しになった世界が蜜蝋なんですよ。あれは反対側に開かれている世界なんですね。あれが閉じると蜜蝋から何から、すべて石の中へ入っていっちゃう、完全に独立した世界になっちゃうということなんです」「だからこれも、空間というよりは時間の問題に入ってくるわけですよ。我々と完全に断絶したもう一個の世界ができちゃうと言う、そういう考えで「ゼロ時間」というタイトルにしたんです」
峯村敏明氏との対談本「宇宙意思としての芸術」のなかで、割った石を蜜蝋の部屋に設置した作品「ゼロ時間」のことをこう語っている。
同時代の赤瀬川原平の「宇宙の缶罐」をも連想してしまうが、英俊さんはここで具体的に蜜蝋という質の空間をつくり、そこに時間の問題を入れてしまうところが独特である。この言葉は別のところでの次の発言と響きあう。「・・・宇宙に心があるというか、情緒があるというか、単なる物理的な物事で成り立っているんじゃない。宇宙自身も単一実体物じゃないかと。要するに我々をも飲み込んだもの。だから、感じる点が同じはずだと思うんです。」そのあと、蜜蜂の社会を宇宙になぞらえ、蜜がイデアではないかと思っている氏の考えが展開される。この本の中でもっとも刺激的に感じられる箇所でもある。
そんな作品をつくり続けた長沢英俊さんが逝ってからもう3ヵ月以上も過ぎてしまった。一昨年のことだったか、川越の居酒屋で英俊さんとお会いしたときは、酒を飲み、葉巻もくゆらせながら談笑していたのだから、訃報もにわかには信じられないほどだった。
私が英俊さんの作品に私が最初に触れたのは、1993年に水戸芸術館で開かれた展覧会「天使の影」展であった。その時の「李白の家」(1982年)という作品を見た時の驚きと喜びのようなものは今も鮮烈に心に残っている。壁に木の階段があり、その先の高いところに“家”の入り口のようなものがある。もちろんそれは壁についているだけのものだが壁の向こうに何かがあるように感じられ、そのタイトルに李白と言う名前を持ってきたことにある種の絶妙さを感じ、思わず微笑みながら作品に見入ってしまった。詩をつくるひとの家、そこにいるようでいない人の存在感とユーモア。ないことが、いかにもあるように実感されることこそ彼がよく言っていた「イデア」の現れでもある。
木や真鍮、銅、ボール紙、竹、紙、鉄などの素材を使い四角い垣根のような「花々のくに」(1985年)という作品。英俊さんは、それを同じ本の中で「・・雪が多く降り、のちに太陽が見事に輝き、庭の門の上にまだ雪が積もっている時に外に出た、私の日本の家のイメージです。」と述べている。たしかにそれは木や竹でつくられた自然に近い日本の庭囲いの様相であるが、それを直に見た時に感じたのは、そこからまさに人でも神でもない中間の存在が飛び立ったあとの名残の“庭”を垣間見た印象であった。私たちがもっているものに何か別の心地よい風を吹き込まれたようなよい気持ちになった。同時にこの人はものに色気とユーモアを吹き込むことのできる希有な作家だと感じた。
そのほか動かされた作品はたくさんあるが、私が個人的に特別な思いをもっている作品がある。それは「オフィールの金」(1971年)である。
これは多くの評者がとりあげている作品でもあり、世界的な「反彫刻」の流れの中で、英俊さん自身も言うように本格的に「彫刻」というものに向かい始めた最初の作品でもある。それまでのビデオやパフォーマンス作品からの新たな展開で、ターニングポイントにもなったものであるから多くの人がとりあげるのもうなずける。“オフィール”が旧約聖書に出てくる黄金の国であることも必ず触れられている。そうした解釈や解説も重要だが、私の受け取りはもっとナマなものである。
それは土着とイデアの結合の瞬間と言ってもいいだろう。
何もないただのげんこつを広げると、そこにまるで手品のように純金の彫刻が現れる。私は最初にこの作品の写真を見たとき、とっさに「サツマイモ団子」を思い出した。
それは、サツマイモの粉をよく練ってそれを手で握ってかたちをつくり、さらにそれをふかしてできる食べ物である。私が子どもの頃、よくおやつにこの「サツマイモ団子」が出てきたが、何しろ色は濃い茶色で、手で握ったことを示す5本指の跡がくっきり出ているインパクトのあるおやつである。
ほんのりした甘さしかない素朴なものだが、私の住んでいた狭山市やとなりの川越近辺はサツマイモ栽培が盛んだったからこういう食べ物もできたのだろう。
英俊さんは満州生まれだが、川島町で育ったから多分これを知っていただろうと想像する。2001年に初めてミラノのご自宅を訪ねた際に、それとなくこのことと作品の関係を聞いてみたが、英俊さんはニコニコ笑いながら否定も肯定もしなかった。それはともかく、私のなかではこの作品が、遠い時間と空間を超えてまさに錬金術のように英俊さんの手の中に出現したことが重要なのだ。
サツマイモ団子は色かたちが強く印象に残る食べ物であり、知らない人が見たら多分食べるのを躊躇するような代物である。素朴で土着的、いずれ消えゆくものに違いない。それが手を介して「オフィーリアの金」に生まれ変わり、イデアとしての「肉体」を獲得する。サツマイモ団子の指の跡は手づくりの“なま”そのものだが、英俊さんの手の中の金は、ものと肉体が触れえた新たな知りえないものとしてそこに出現する。ここには西洋の構築性はないが、ないがゆえの直接性となまめかしさがあり、彼らには決してできない別の構造の独自性がある。そして写真にある手や背景とともにこの金色の物体はこの世界に“蜜”として存在する。時間と空間の速度があり、そこにまさに芸術の誕生を、その魔術的な瞬間を見る思いがする。
ものは偏在している。そこからイデアに到達することでこのような作品が可能になるのか、あるいはむしろイデアからそのものへの接近なのか、それこそ英俊さんのことばを借りれば「宇宙意思としての芸術」の顕現がそこにあると言えるだろう。
長澤英俊さんという希有なアーティストはもうこの世にいなくなってしまったが、その作品は今なお輝きとユーモアを失っていない。(作品写真はカタログ「長澤英俊|オーロラの向かう所」と「宇宙意思としての芸術 長沢英俊 峯村敏明」からの引用)