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 私たちの知覚は、AI(人工知能)の登場によってどう変わるのだろうか?人間でなければできないような知覚方向にシフトしていくのか?それとも知覚の初期 化を反復するのだろうか?そもそも私たちの知覚自体が実はAI的(転倒した言い方だが)であり、それを今再確認しているに過ぎないのか?

 モランディを見ながらこんなことを考えていた。いつもなら絵の具の官能性のことを感じながら見入っていたところだが、今回の展示では、同時に自分の知覚が問い直される気がした。その根底には人間が何を認識し、何を見ているのかという問題がある。

 

 RIMG0066私 たちが現実に何かを見ているとき、それは、“ある”と“ない”で認識される。なにか物があり、そのまわりにはなにもない、というふうに“ある”と“ない” の繰り返しがあり世界が形成される。ところが絵画のなかでは、それは“ある”“ある”か、“ない”“ない”の関係しかない。

 

  たとえばそこに器が並んでいたとしよう。器には光があたっていて明暗があるからそれは“ある”。その背景にはなにもないから“ない”。その“ない”の根拠 はそこに何も存在しないということである。ところが絵の中ではその“ない”は何もない空間が“ある”ということなのだ。絵の具は“ある”ところと同じよう にこの“ない”ところにも塗られなければならない。(右部分図参照)

 この器の背景にさらに白い器があったとすると、それは白い器としてそ こにあり、何もない背景としても同時に機能している。器として“あり”何も“ない”背景としてあり、さらに絵画として見れば絵の具が充填されて“ある”。 現実にあるものがこのように絵画生成の過程でめまぐるしく変転して知覚される。絵画のなかの“ある”“ある”の関係はこのようなことをさす。それはそこに ものがあるということでもなく、差異としてそういう関係があるということで、それはすでに“ない”“ない”の関係とも言える。だから絵画のなかではまるで マジックのように“ある”を“ない”ことに変換することが可能になる。(下図)RIMG0070

 個物は存在しないから、器と器のふちがつながってなにか別のものに見えたり、器どうしの遠近がどちらが手前かわからなくなってしまったりもする。その存在さえも不明になり、あるものがなくなり、ないものがある、といったことがそこに起こるのである。

  しかしこの絵画のなかの“ある”“ある”状態ないしは“ない”“ない”の状態を、かろうじてものの存在のありようとする手がかりが存在する。それは重力を 受けとめる平面であり、それは器がおかれた平面である。これによって先ほどの繰り返しは、ものが存在するときの地球的あり方であることがわかる。差異とし か見えなかったものを、設置面へとたどっていくと、ようやくそれが器であることがわかる、と言った次第である。(下部分図参照)

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それは人間の視覚がいきなり初期化されて、一から認識し始めるような事態である。私たちは自分の目や感覚がいきなりサイボーグのそれになったような感じでものを見ている。あるいははじめて地球にやってきた宇宙人のような目でそれを見ている。

  「わたしたちが実際に見ているもの(現実)以上に、抽象的で非現実なものはなにもない」とモランディは言う。確かにそうだろう。でもそれはやはり絵画をつくる者のことばなのだ。その人には現実が本当にそう見えている。そうでなければこのような絵ができるはずもない。

  絵というひとつの共和国、そこでは絵の具にもかたちにもヒエラルキーが存在しない。それらはすべて平等である。そこでは“ある”“ある”の関係か“ない” “ない”の関係しか存在しなく、意味がない。本当にあったら発狂してしまうような世界だが、それでも絵は存在する。存在するどころかそれは現実をそのよう なものと見させてしまう力を持っている。モランディには現実の世界が絵のように見えていたはずである。

 つまり彼はその時代にいながらにしてサイボーグのような目をもち、宇宙人のようにものを見た。そのような目を、そのような頭脳をもつことが絵を描くことで可能になったのだと言えよう。

 

  ここまで書いているとAIが囲碁の世界チャンピオンに5戦中、4勝1敗で圧勝したというニュースが入ってきた。すごいニュースである。ディープラーニング (深層学習)によって大局的に判断することが可能になった結果だそうだが、このグーグル・ディープマインド社開発の「アルファ碁」は指し手を指示はできる が肝心の指す行為はできない。写真では開発者のアジャ・ファン博士が碁を置いている。ここのところがおもしろい。AIは肉体をもたないのだ。

 一方人間は肉体という限界ある物質界をもち、ここを通って頭脳に情報が入り、ここを通って新たな運動のようなものが出て行く。そのとき何が起こるのか?AIに発生するような純粋情報はここで肉体という一種の器官複合体を通じてさらに変化を遂げるのである。

  しかしたとえば先ほどの器があるかないかを認識し、絵を描いてそれを“ある”“ある”関係か“ない”“ない”の関係までもっていくのは人間にしかできない ことのように思われる。AIなら“器と器のふちがつながってなにか別のものに見えたり”、“器どうしの遠近がどちらが手前かわからなくなってしまったりす る”ことはないだろう。なぜならそうした認識はAIにとって明らかに失敗であり、先述の身体運動化に際してはとんでもない間違いを引き起こすからだ。そう した危険性はAIにおいては排除される。一方の人間にとってもそれはある種の誤読であり錯誤でもあるのだが、この行為こそが物質、肉体の世界にある人間特 有のものとも言えよう。生身の人間には、いわば錯誤する力のようなものが備わっていて、それはAIにはない。あえて言うならば、錯誤は行為を司る肉体から の贈り物なのである。

 それを物語るのがモランディのあの絵の具のなんともいえない手触りであり、こってりした(*)、それでいて震えるよ うな筆のタッチなのである。これらは肉体と物質が出会って生まれたものであり、AIの頭脳の透明さに比べたら比較しようもないほどに不透明な手触りなので ある。(“こってり”はディープラーニングによって習得されようが

 モランディの絵画では、認識と官能が一緒にやってくる。その認識とは知覚の初期化によって生じるような極めて原始的なものにすぎないが、一方の官能は肉体がもつ過誤をふくめた高度なセンスである。その絵画を見ることは、肉体を獲得したAIが見ている世界を体験するに等しい。

 

*“こってりした”感じをAIがやろうとするとディープラーニングによってある程度習得されようが、触覚を伴う視覚や記憶という問題に突き当たることになる。

(モランディ展は東京ステーションギャラリーで4月10日まで。なお図版は同展カタログから引用)