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 誤読と誤解を引き出す作品はやはりいい作品なのだ。だからひとつの解釈を受け取るように誘導していないこの映画は、つまりどう解釈してもよく、そのような意味でこの作品はこの上なくいい映画なのだと思う。思わずだれかに書きたくなるような、言いたくなるような、今までのゴダールの映画の中でもとりわけわかりやすい映画なのではないかと思う。

 それにしてもゴダールがなぜ3Dなのか?という疑問があるにはあった。それが最初のほうのショットで氷解する。「ググるな・・なんとかかんとか」と言うline が出てきて奥行きがグーンと深い映像、そしてこの奥行きがある画面は息もつかせず最後まで随所に挿入される。世界は奥行きに満ちている。パソコンやiPhoneばかり見ていないでこの世界を見てみろよ!ほらこんなに奥行きに満ちている、と言わんばかりの映像なのだ。水がたまっているところに手が添えられる、その水のタイル底までの深さの美しさと言ったら比較しようがない。あるいは監督の住んでいるレマン湖のほとりで撮ったのだろうか?木々の葉っぱの重なりとその向こうの太陽の光、せせらぎの奥行き。で、でもこれはそういう映画ではない。

 

 そう、これは犬の映画なのだ。ここが今回、私のもっとも感動した点であり、もしかすると誤解の重要なポイントとなるところかもしれない。

私事で恐縮だが、私はよく妻に「犬みたい!」と言われる。たぶんいつも動き回っていて、あるとき突然止まったり、何も考えずに何かをじっと見ていたりするからなのだろう。それはそれで図星なのだ。何も考えていない、ただほっつき回って何かを見ている、このような犬の視点から映画をとらえ直しているのが今回の映画の特徴なのだ。これが泣ける。よくぞゴダールは犬の気持ちをわかってくれた、とばかり私はまるで自分のことのようにこの映画に感じ入ってしまったのである。

 犬には言語がない。一方私たち人間は生まれてすぐに言葉を覚えそれを通じて他者を知り、世界を知る。私たちの生は言語の海をおよぎ続けることでしか存在せず、欲望も言語によって生まれ、その網の中で左右される。見ることも言語によって絡めとられ、いわば象徴界のネットワークによって世界を見ていることになるわけだ。犬の世界にはそれがない。一体彼は何を見ているのだろうか?

私たちの見ている世界とは違ったものを見ているとしたらそれはどういうものなのだろう?そういう視点が共有できる映画と私は解釈したい。

 あのゴダール、「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」そして「ゴダールの映画史」その時々で“今の今”を考えさせ、もっともカッコよかったあのゴダールが、最後に行き着いたのが犬の視点とは?その題名も・・・さらば言語「ADIEU AU LANGAGE」。

うーん、これはほんとにうなるほど奇跡的な83才にもなる天才監督の映画、というかそれほどたぐいまれな映画体験に違いない。

 だがここでもちろんゴダールは犬の視点を獲得しようとしているわけではないし、原初の視覚を獲得しようとしているわけではない。(モネの引用がある。モネの晩年の作品、バラの小径のシリーズ、ほとんど視覚を失って描いた一連の作品群はこの映画と視覚の不可能性において通底する)そんなに簡単なことではない。

 画面にはおびただしいほどの過去の映画のシーンがフラットなデジタル画面として登場する。男と女がいてその向こうにやはり男と女の白黒の画像が展開する。この生々しさと二重感。映像が現実のメタファーとするならばその中に存在するメタのメタ映像、そのことによってこのゴダールが撮っているこのカラー3D映像が反転して現実となる驚き、つまりメタのメタはリアルという映画構造の妙に引き込まれれば、先ほどの簡単に原初の視覚を獲得しようとしているのではないことが納得できよう。

 

 そういえば先週は、KAKEHASHI ProjectでLAのLACMAにいたのだった。そこでやっていたのがドイツの1920年代の映画特集でムルナウ、パプスト、ロベルト・ウィーネ、フリッツ・ラングらの作品とそのつくられた背景、ドローイング、写真、舞台やポスターなどのデザインが展示されていた。自分が学生時代に「カリガリ博士」とか「吸血鬼ノスフェラチュ」などに夢中になっていたことを思い出し、今なおその画面が映画的輝きを失ってないことを確認したのだった。だからその白黒の光りまばゆい画像に今の現実のカラー画像をだぶらせるのは、時空のあいだを行き来するような刺激的な体験でもあり、またスキゾフレニックな体験でもある。私たちの時代のありようはそんなところなのかもしれない。つまり終えようとしているのだ。大きな何かを終えようとしていて、なおかつ分裂的に何かをつくり出そうとしているのかもしれない。

 

 3Dで思い出されるのがヘルツォーク(Werner Herzog)の「世界最古の洞窟壁画忘れられた夢の記憶(CAVE OF FORGOTTEN DREAMS)」である。2010年の3D映画で、この時もなぜヘルツォークが3Dなのか、興味をもって見に行った記憶がある。この場合の3Dはショーベ洞窟がつくられたその当時(約3万年以上前)の感覚に迫るものだった。

 つまり絵は今では平面に描いて当たり前だが、太古の昔、理由は定かでないがショーベの人たちは洞窟内の凹凸のある面に動物のイメージ(像)を描いた。そうするとそのできたてのイメージはたいまつの光もあって揺らめき、動き、まるで昼間見た光景がそこに出現したように見える、いやそれどころかもっと別の見たこともないような世界が出現した・・・そこに出てきたのは、今の言葉で言う絵でも映画でもない、あえて言えばその始まりのような世界だった。あるいは一体化した自然から離れるその瞬間だったかもしれない。その感覚を今示そうとすると3Dでやるしかない。

 映画は不思議な説得力を持っていた。彼は72年に「カスパー・ハウザーの謎」をつくっている。この映画で16才まで幽閉されていた青年は、はじめて世界に触れ窓を見たときにその向こうに広がっている世界と窓をわけて見ることができない。窓の向こうの風景がガラスに張り付いているように見えるシーンがあった。彼はもちろん言葉を話せなかったが解放された後にそれを習得したらしい。私たちは言葉によって見ているのである。言語によって世界は成立する。また彼は先ほど書いたムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメーク版「ノスフェラトゥ」をつくっている。そう見ていくとヨーロッパの映画の最古参の監督ふたりが3Dで、ある種の原点に返っていることがおもしろい。あるいは3Dの終わりを描いていると言うべきか?

 

 翻ってこの国にはその発想はないだろう。ここはどちらかと言うと3Dよりは2Dの国である。その想像力は今のググル感覚に合っているのか、それとももうそこからも予想もできないような遠いところに来てしまっているのか、それはわからない。これも誤解を恐れずに言うならば、日本語の字幕の位置が3D画面の中で、所在わからずに微妙に光っているのがおもしろく示唆的であった。それはなにかこの映画の3次元世界とはまた違った別次元からのメッセージあるいは呪文のようにも見える。これはさすがにゴダールも意識しなかった点だろう。

 私たちはここにいる。