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「25+1年あと(未来)の記憶」展 初日のトーク フライヤー&テキスト

2021 Apr 17 - 2021 Apr 25

KIITO


◯展覧会初日17日のトーク: 長沢秀之 × 服部正(甲南大学教授)・・・ギャラリーCにて公開中

◯展覧会への感想はこのサイトの<コンタクト>を通じてお寄せください。(今までのも含めて会場の掲示板に掲載)

KIITO のサイト⇒https://kiito.jp/schedule/exhibition/articles/46914/
特設サイト ⇒https://taiwa-kobe.official.jp/     

下欄掲載テキスト:市川政憲(美術評論)*テキスト掲載冊子は市販してません。希望の方は展覧会事務局までお申し出ください。

                                                       

 

 

 「対話・死者・記憶/絵画」                                                                                  市川政憲(美術評論)                                      

 のっけから「死者」の話で恐縮だが、長沢秀之を語るのに、死者を避けては始まらない。彼ほどに死者と正面から向きあい、考え、死後を生きる者を語ろうとする画家もめずらしい。いや、画家ではなく、ここは人と言うべきであろう。写真に写るものは、その人の現在の存否を問わず、すべて幽霊である、と言って憚(はばか)らない彼は、しかし、決して対象として幽霊を描く画家ではない。幽霊の現われる「現在」を開くのである。死者は、絵のテーマとしてあるのではない。絵を見る生者が、死者と出会い、死後の生をも含む全き「生」に覚醒する時、絵画もまた「現在」として甦る。

 「死者」と向かい合うことが憚(はばか)られるのは、今に始まったことではなく、日常の秩序だった生活、現実を乱すからである。死者とは、かつて生きていてここにはいない、つまりは過去に属する人である。過去の人が今ここの現在に越境して来るのが、亡霊、幽霊である。そうは言ってみても、そもそも、「過去」、「現在」というものは本当にあるのだろうか。しかし、時間なくして生命というものはあり得ない。生命なくして時間もない。また、過去・現在・未来という時制なくして、私たちの日常生活は成り立たない。「幽霊」は、私たちの日常の体制の基となるその時制を乱すのである。だから死者と生者の棲むところを、一つの河をもって彼岸と此岸に区分けする。とりあえず、彼岸を死者のクニとしたとして、それは過去の世界なのだろうか。いずれ遠からぬ未来に自分もそこへ行く、そんな思いに、過去・現在・未来という線的な時制は揺らぎ出す。此岸の現実に対して、彼岸において過去と未来は重なりあうのかもしれない。過去の人たる死者、そして死者とは未来の私であり、未来とは、私の姿が消えたあとの世界、確かなことはこれだけである。

 「時制」の意識のもとでは、時は、喩えれば河のように、絶えず流れ去るものと眺められている。そのような日常の意識、流れる時の相のもとでは、外部世界は、時の河をはさんで自分と平行関係にあり、向かいあう関係にはない。一枚の写真も物として、外からただ眺めている限りは、長沢の言うような幽霊が現われることもない。しかし、写真の場合に限らず、不図(ふと)した時に何かに気付くということがある。「気付く」と能動的に言うけれど、その「気」が何かは審らかではないとしても、何かが自分に触れてきて「気付かされる」ことでもある。さらに言えば、心に触れる(触れられる)と、心は振れる、つまり振動し、息づく。その振れ/触れが大きくなれば、気が「振れ/触れ」て、時制を逸脱し、日常生活に支障を来たす(註1)。私も困るが、世の中には、気付かれては困る思惑も潜んでいる。その手の輩が、私たちが立ち止まって考え始めないように、「未来」を煽り、急かすのだ。それは措き、何かに気付くその時、「考える」とは「向かいあう」ことと言われる(小林秀雄)ように、その時、私の意識の流れは一旦止り、その何かがやって来た方に向く。日常の時の流れに対して直角に、その何かと迎え合う時、意識の流れは断たれ、流れる時の外に立つ。それは、何処にもない時制の現在とは別の、地表の「現在」に触れることではないだろうか。

 以前、ある高校生から届いた忘れ得ぬ感想文がある。新たな体験や知見の報告が多い中で、彼女は、美術館とは自分が絵を見る場所と思っていたが、自分の方が作品から見られているのを感じたと言う。そしてその時間がとてもよかったと。彼女は、自分がそこに存在し得た稀有な時間としての「現在」を語っていると私は聴いた。

 彼女はその時、対話の入口に立っていたのだと思う。ただ、そこから何かが始まってはいなかった。それでも、見ることは見られることであるという、他者との相対の関係に目覚めたことは、見るか見ないかという、主体の意志に自閉するよりも、はるかに意味のあることと思う。「見る」と言っても、向かいあう正視となれば、決して意のままに自由なことではない。外部に他者あっての「不自由」なことである。正視は、沈黙する世界の「声」に耳を傾けることからしか始まらない。身をもって向かいあわずして自分が見られることはなく、他者の眼差しなくしてみずからの存在を実感することはない。こどもの頃、「お天道様が見ているぞ」は、悪さを戒める言葉に聞こえたが、どこかに大きな眼があった。「母さんが見ているよ」となれば、肯定の響きに背中を押され、前を向けた。孤立した私たちは、誰かしらの肯定的な眼差しを心のどこかで求めている。その願いが表現となることは珍しいことではない。

 学生時代の長沢は、絵画とは距離を置いていたようである。自己表現の具と化した絵画に対して批判的であったものと想像できる。1970年代の末、彼が世に出た時代の美術は、絵画そのものを否定する物質主義の傾向にあった。物質の沈黙と向きあったまま、美術が、語ることを止めた時代に、それでも画家として世に出ようとしたのは、絵画に対する批評的精神の覚醒と絵画への「愛」があったからであろう。その経験を語るのが、いまも彼がよく口にする「メディウム」や「幽霊」という、彼によって新たな息吹を吹き込まれた言葉たちである。自己表現の具、作家自身の事象を伝達する媒体と化してしまった絵画を批評的に破壊し、物質としての皮膜を取り出し、それ自身を表わす純粋な媒体、すなわち彼の言う「メディウム」として再生させ、そして、そこに出現するものを彼は「幽霊」と呼んだ、そう私は理解する。それは彼の経験から生れた言葉である。彼の「絵画」は、みずから言うとおり、一旦死んだ絵画の死後の生を生きる、絵画の幽霊、絵画再生の「絵画」とも言えよう。表現の不自由を遍歴する中で、いくつもの時の河を超えて来た長沢が、絵画の経験を語れる教師であったことは想像に難くない。不自由を知らない学生たちの表現の残滓を正視し、組織された全体として見られる「作品」という形式の仮象性を破壊しつつ、その破片の中から何かしら触れてくる細部に微視的に侵入し、奥に息を潜める内実の「生」を救い出し、新たな息吹を吹き込むことを実践して見せてきたものと想像する。絵画組成室の隅に打ち棄てられた練習画たち、「これを組成ならぬ蘇生で変えたいと思った。そこに私の点を刻印することで、もとの絵が別のものになる。」それを彼は「絵画への愛の表明であるとともに絵画の亡霊との戦い」と呼ぶ。学生たちとの現場での向かいあいを重ねる中で到来し獲得された言葉が、「対話」という言葉ではなかったか。

 この「対話」プロジェクトの始まりは2015年と聞く。東京の小学校に始まり、次いで奄美大島の人たちと、そして、阪神大震災から25年の昨年、神戸の人たちの参加を得て行われている。それは、画家長沢の個展という性格のものではもはやなく、美術とか絵画という範疇をこえて、ひとつの岐路という状況認識から、私たちの過去、或は失われた「生」と向かい合うことでの精神の覚醒を提案する、まさにひとつのプロジェクトと受けとめる。とはいえ、この標題に散りばめられてある「対話」「私が生まれたとき」「25年あと(未来)の記憶」、これらの言葉は、私に向って島のように尖っている。これらをどう繋げて考えればよいのか、直線的に推論が進むものでもないだろう。海面下に潜ってみるほかない。実のところ、参加を呼びかけるにあたって、そのあたりを長沢はどんな言葉で語ったのか、聞いてみたくもある。しかし、要して話せることでもないであろう。そこから、すでにひとつの対話は始まっている。

 神戸での参加者が提供した写真と文章、それと写真を「コピー」した長沢の素描を編集した記録集が手元にある。その緒言(しょげん)と跋文(ばつぶん)から、私に角度を持ってくる言葉を引き寄せながらこのプロジェクトが生まれてきた風景の深みに迫ってみよう。

 「ひとは写真を見て記憶を語る。今回の企画に参加してくれた人々もそうだった。そのなかで感じたのは、記憶は過去のことではなく“今”にこそ呼びもどされて意味をもつということだった。」「25年あと(未来)の記憶」という言表にこめた彼の思いがうかがえる文章ではある。しかし、まずもって敬服するのは、彼の濃やかな言語感覚である。「ひとは写真を見て記憶を語る」、この一文を私は読み飛ばしていた。実際、誰でも見知った眺めであろう。幸いにも、跋文(ばつぶん)に「それにしてもなぜひとはアルバムを見て、その時を想起し語るのだろうか?」と繰り返されていることによって、写真を見ている人が語り出す場面に足を止め、あらためてなぜなのかを考えさせられた。沈黙する写真と向きあった参加者の口からそれぞれの記憶が語り出される対話の場に、彼は幾度となく立ち会ってきた。記憶が語られる、いや、言葉となって過去が現在に語り出されるのである。ひとつの言葉が現れる時、彼らがいる空間に過去が、語り出される言葉の響き、あるいは語り手の声とともに、幽霊となって訪れる。その時、その空間は、過去と現在の間で振るえる「現在」に変質する。語り出された言葉の、その物語、意味ではなく、その振動、語り手の息遣いによって、語り得ぬ過去、生きてきた時間が「現在」として甦る。長沢は過去という失われた時間を触れ得るものとして実感したのではないだろうか。そうして語り出される言葉に、外的な情報の伝達媒体と化した言葉とは異質の「メディウム」として、自身の絵画に通じ合うものを、長沢は認めたのかもしれない。

 語り出すこと、沈黙に触れることから語り出されることに意味がある、そう考えて彼は参加者に文章を書くことを求めたのであろう。だが、なぜそのテーマが「私が生まれたとき」なのかが腑に落ちない。ただ、思い当たる節がないわけではない。その節こそ、私自身が言葉にできずに積み残してきた問題にも思われる。それを正視するには、彼の尖った言葉たちを伝手(つて)に、回り道を行かねばならないだろう。直進せずに、まずは、彼のドローイングと向きあおう。

 参加者に写真との対話から生まれる物語を残すことを求めた彼自身も、その写真の一枚一枚と対話する。参加者の文章と彼の素描とは同格に並列されるものであって、みずから断わるとおり、この素描は、参加者の個人史を汲んで描かれたものではない。実際、一連の素描は同質に見えるし、その事情は、以下のコメントにも読み取れる。「写真の家族や人をなぞっていく。機械のようにそのものをなぞること。盲目の人が、人の顔に手をあてて、目を、鼻を、口をなぞるようにその写真の見えない起伏をなぞること。重要なのは、デッサン力よりコピー力である。ここではデッサン力に結びつけられる内面や心理は関係ない。家族特有の口のかたち、鼻の曲がり方や頬のかたち、表情、衣服の違い、あるいは履物と足とのずれ、そうしたところを確認しながらなぞっていく。」示されているのは、彼の「対話」の流儀であるが、何と明瞭なメッセージであろうか。読み手への忖度のない、このように明瞭なメッセージは、何処に立てば発せられるのだろうかと思わずにはいられない。写真をただ外から眺め、ときに共感を覚えているだけの私のような「人間」は、履物と足とのずれといった細部などに気付くこともない。「個人的」な見方すぎて、理解はできない、しかしなぜか不思議と、受け入れられるのである。明瞭と言える所以である。その明瞭さに、私が持ち合わせる「個人」という言葉が揺らぎ、振動し始める。彼の気付きは個人の領域にかかわることではあるが、ここで「個人」と言ってみたところで、意は伝わるまい。「個人」という、今では集団としての人間に対する意味しか持たなくなった言葉では伝わらない。同様に抽象的な言葉でしかなくなった「社会」に対しては、個人は個体差においてしか意味を持たないからである。個人という言葉に手触りがないのは、「人」あるいは「人間」という言葉の向こうに浮かぶのが、これまた曖昧な「自然」という観念でしかないからである。しかし、長沢のメッセージの明瞭さのなかに、いわゆる個人とは別の、手触りのある「個人」を私は感じ取っているのだろう。(長沢は、かつて、「人間」を描けずに格闘した末に、「覆い被さる“自然”をはねのけたところに見えるデクノボウのようなもの」と言ったことが、思い出される。「“人間”を見えなくして来た“自然”というものに“風景”を対置することによって“人間”を見ようとしてきた」という考えは、このプロジェクトにまで通じている。)このメッセージは、空疎な観念でしかない「人間」を脱ぎ捨てたところから発せられているのではないか。だから彼は、人間がするところの「描く」ではなく、「機械のように」なぞるのだ。しかし同時に、「機械のように」とは、機械ではないということである。「人間」でもなく機械でもない、・・・視覚という「私の目」を持たぬ身体、機械の眼を持つ身体、非人称の生者(=彼の言う「デクノボウ」)として、彼は死者の前に立っているのではないか。その時はじめて、一枚の写真との間に、身体を失った死者の面影との対話の通路が開かれる。

 「人間」を脱ぎ捨てた生者はかたちに捉われない。イメージという全体を掴むデッサンの目を封じている。彼にとって素描とは、彼に向って角度を持ってくる細部に潜む影、時の痕跡をなぞるように分け入る行為である。写真は過ぎゆく時の一瞬を切り取り、どこにもない過去を痕跡として存在させる。その痕跡をなぞることによって、かつてあった、失われた時が想起される。皮膜を持つ物質存在である写真プリントは、過去を記録する媒体というよりは、どこにもない過去を記憶する「メディウム」である。その「記憶力」、すなわち、過去を現在に想起させる力に、生者として手を貸すのが、長沢の素描ではないだろうか。想起のなかから、「思ってもみないものが立ち上がって来るのはなぜなのか?それはどこからやってくるのか?そのひと個人の記憶、ましてや私の記憶でもなく、はたしてそれは記憶と呼べるのかどうかもわからない、はるか遠くのかなたから弱々しくとどく光のようなもの・・・」。

 「コピー」とカタカナ言葉で言われると、なぜか機械仕立ての複製に聞こえてしまうが、機械ではないから、紙に触れる彼の手からその息づかいが伝わり、死物たる写真プリントに圧縮された過去の生きられた時が、面影の死者の背後からモヤモヤと温もりを帯びて、彼の指先から解き放たれる。そのモヤモヤは、参加者たちの物語の中身、テキストではなく、語り出された言葉の肌理、テクスチュアたる声のように温もりをもって触れてこないだろうか。痕跡としての過去が、時制の現在とは別の生きられる「現在」を開く。

 今、「記憶力」という言葉を使ってみた。記憶とは、記憶されるものであると同時に一つの力ではないかと思うからである。しかし、その力とは、耳に覚えのある「記憶力」ではない。あの人は「記憶力」がよい、などと使われているが、この場合は、記憶するのはその人であり、その人の「記憶量」や記憶を保持する能力に関してのことである。人間の脳をコンピューターと同化し、記憶をデータとして蓄積できるものとする見方からくるものであろう。現代人は多くの知識や情報を、直に体験することもなく、さまざまな媒体を通して取得し、脳に分類整理して蓄える、それを記憶と思い込んではいないだろうか。昔ならば博識と言われたものが、「記憶力」で測られる。しかし、そうした現代風の「記憶」は、個体の死とともに消え去り、継承されることもない。かつては、経験として語り継ぐ共同体という器があったが、そもそもの体験なき間接的な、それゆえに膨大な量ともなると、新たな受け皿が必要になり、個体の外部にそれを貯め置く近代的な装置が設けられることにもなる。しかし、アーカイヴにしても、「個人」史的なものは、名を残した人に限られる。もとより、残すことを否定する考えはない。残せるものなら残せばよい。物量の負荷の問題も、コンピューターの電脳によって解消はされてもいる。しかし、そこで解消されたのは、保存の方法の問題にすぎない。もっと大切な大きな問題が忘れられてはいないか?

 いったい私たちは何故に物や言葉を残そうとするのか。より進歩した豊かな未来のために、さらに新しいものを産み出すためなのか。だが、そうした夢物語では、すべての物は時の中で失われていくという真理には太刀打ちできない。私たちは相当の量のものを残せるようになった。実際、物が多すぎて世界が見えなくなるほどに。しかし、それでも、残るものよりはるかに多くのものが失われていっていることは、例えば、一つの文明の跡の廃墟を見れば想像できる。あるいはまた、ある人の思考の跡たる著作にしても、著者の生涯のほんの一部でしかない。残すということは、失われていく運命に対する人類の叡智からくる営みなのではないだろうか。残されるものは、本来、失われていくものを想い起こす縁(よすが)としてあり、かつてあったものの痕跡として、私たちを過去と向きあわせるために残されるのではないだろうか。過去を記す歴史にしても、昨今の事実主義は語られたことの正否に終始し、語られずに失われていった者たちが想い起こされることはない。私たちは語り、書き残さねばならないのは、語り得ずに失われていくものを想い起すためではないのか。「保存」という思想は、コンピューター時代にあって、一つの岐路に直面しているように思えるのである。「おそらく人間には、失うという仕方でしか見いだすことのできない何かがある。」(註2)残されるもの、ものとして客体化された遺物や記憶への依存は、失うことから始まる精神の活動を疎外する状況を来してはいないか。残すことに前のめりになり、残されたものに捉われすぎて、過去は、忘れられる以前に見失われてしまってはいないだろうか。

 このプロジェクトは、こうした状況を一つの岐路と認識するところから投じられたものと考える。彼の言う「対話」とは、直ちに未来を志向する対論ではない。進歩を謳う歴史のもとで抑圧され、見失われた過去、死者との対話である。彼がよく引き合いに出すベンヤミンの「歴史の天使」(註3)のように、進歩の歴史が産み出す瓦礫の山の前で、かつて存在していたものの欠片、痕跡の沈黙を聴くことから始まる対話。それを可能にするのが記憶の想起力と言えるであろう。しかし、その記憶とは、その人個人の記憶と言えるだろうか。一個体による体験の記憶なのだろうか。すでに紹介したとおり、長沢はそれを問う。その問いから導かれたのが以下のメッセージであろう。「写真プリントはカメラという死者の眼から引き出されたものであるにも関わらず、不意打ち的に生と繋がる。」ここにいささか唐突にも切り出された「生」という言葉。それは「個人の記憶」という思いが揺らぎ始めたところから出て来たものであろう。彼は、写真プリントをなぞる素描をみずから「コピーのコピー」と呼ぶ。これは、生命科学の先端領域から報告される考え方でもある。生命の定義の重要な一つは、自らの複製をつくる能力である。

 ところで、例えば廃墟にて。ある彫刻家が、エジプトの古代遺跡に立って、ここには「純粋な廃墟」(註4)があると言った。遺跡から運び出された遺品の展示会は盛況である。もとより、そうした遺品が保存状態よく残っていることは、まさに人類の遺産として歓迎されることであり、それを鑑賞する機会は有り難い。その上で、この彫刻家は、遺跡から持ち出された文化財を博物館の展示場で目の当たりにするよりも、遺品が持ち出されたあとの廃墟に立つことの方が、精神的には豊かなものがあると言う。廃墟が「純粋」であるとはどういうことか。確かに、廃墟には、精神的な「明るさ」がある。その明るさには、単純さ、明瞭さが含まれている。廃墟では、もともとそこにあったものが破壊されたり、物が持ち出されたりして、それだけ物の量が減っている。その分だけ穴が空くわけだが、それを、あるはずのものがない不在の空間と抽象的に捉えては何も始まらない。物と空白を並列的に眺めるのではなく、穴の奥行きに分け入ること。廃墟に残存するものをかつてそこにあったものの部分、痕跡と見る時、私たちの記憶という想起力は、そこに足りないものとして、過去という失われた時間を引き寄せる。それは、単なる想像力、空想のなせる業ではあるまい。その土地に身を置くゆえに起こること。その土地の現在である地表に立つ時に、足下に圧縮され積層して埋もれた過去の時間が、この身体を貫いて立ち上がってくる。現実にはどこにもない「時間」に触れる。大気とは別の「時間」を呼吸する時、私を超えた眼に現れるのが、長沢が求めてきた「風景」というものでもあろう。

 間奏が長くなったが、それにしても、なぜ、実証という常識を外れて、目の前にある物ではなく失われたものと向かい合うと、幾世代もの死者を繋いで、自分など影も形もなかった遥かな過去にまで心は繋がっていくのだろうか。この疑問への一つの応答が、生命の歴史を生活者の言葉で語ってくれた解剖学者三木成夫の仕事(註5)のうちにある。

 三木は語る。ふつう記憶というと、もの心ついて以後に集積されたものを指すが、臍の緒が切れる以前から、生まれながらに備わった記憶、三十億年の最初の生命体の彼方から、からだの奥深くに、次から次へと累積されてきた記憶、細胞原形質の中核をなすDNAのあの二重の渦巻文様の中に秘めやかに刻みこまれている「生命記憶」のことを。さらに、その記憶の「憶」とは何かを。「“憶”の本字は造字上“言中也”という。いってみれば、暑くもさむくもない、過不足のない状態、つまり温度というものを全く感じさせない状態をいうのでしょう。それはまた“快也”ともいう。われわれのからだは、こうした生理条件を最も快適なものとして、それになじみきっている。そして、そこから少しでもずれると直ちにその状態に戻ろうとする。われわれはこうしてたえず“憶”を“記”し続けるのです。それは生物発生以来えんえんと受け継がれてきたまさに生命的な営み」と。

 思い当たることに気付かされる話である。記憶とは「尋常」の重ね描きであり、いのちを繋ぐべく働く生命体に具わる力に思えてくる。生命誌においては、生命の向こうに見えるのは、観念の「自然」ならざる地球、宇宙的に運動し続ける非生命の地球である。その運動に伴う変化に応じて、記憶が、失われた「快」を復元すべく、みずからの細胞に微細な変更を加えていく。それが生命の歴史であり、それを人は進化と呼ぶ。この進化の物語は、失われた生きられた過去を回復、あらたに取り戻す営みとして重ねられていくものである。語り継がれる物語が、語り手の置かれた状況によって細部を改変されながら伝わるように、いのちは継がれていく。

 また、三木も言う例えば「温度」ということ。もし、「中」なり「快」なる状態が続いていれば、温度という事象は存在しない。いや、外部というものがない。だが、地球は静止してはいない。その変化によって違和が生じ、溝が出来る。その隔たりに、失われたものへの呼びかけとして最初の言葉が発せられるのではないか。

 長沢がなぜ参加者に「私が生まれたとき」について語ることを求めたのか、ようやくにしてひもとけてくる。何故、長沢は記憶として語れぬことを物語の「テーマ」にしたのか。その前に三木の生命誌から、私に角度を持ってくることを敷衍して少々。胎児は、羊水の中で生命の歴史のすべての過程を辿り、ヒトに至るまでの生命記憶を具えてこの世界に産み落とされる。「中」にして「快」なる環境の喪失を告げるのが、オギャーの一声であろう。もの心がつくまでは、生命記憶に基づいて不足を訴え、それに応える親の保護なくしては生きられない。もの心がつくとは、世界との分れにおける自我の芽生えることであり、人間の言語を持ち、みずからの体験に基づく記憶を言葉として持ち始めることを言う。そして、やがて、人の個体としての体験が、生命記憶に取って代わって「記憶」と認識されていくのであろう。それゆえに、生れてからもの心がつくまでの期間は、人としての「記憶」の空白期とも考えられる。しかし、それ以後も生命記憶は失われてしまうことはない。秩序ある日常のもとでは内奥に息を潜めながら個体の生の維持に働く。プルーストが掘り起こした「無意志的記憶」、あるいは、ボードレールの「万物照応」も、生命記憶に基づくものに思えてくる。記憶には、本能とみられることもある生命記憶と、個人が後天的に身につける記憶とがあるとしてみよう。それぞれは、三木が国語辞典から引くところの、「いのち」の二つの相、すなわち、第一義の、生物を連続させていくもとになる力、源としてのいのちと、二番目のいわゆる個体の生存期間と結びつく。

 さて、長沢が切り出した「私が生まれたとき」についてだが、参加者ひとりひとりが選んだ一枚の写真と対話するにあたっての仮設のテーマというか、対話が、個体の生の始まりを考えることへ向かうことを示唆したものと理解する。自分が生まれた時を記憶として語ることは、おそらく誰にもできない。長沢はそれを承知の上で切り出している。なぜ語れないのかを考えるところから始まる物語があるからである。私もあらためて考えた。もの心がつく以前、自我が芽生える以前の「この」いのちは、未だ「私」のいのちではない。「私」というものは未生なのだから。非人称の個体であり、非人称のいのちである。名付けられても、未だ「私」のいのちではない。あるいは、この個体に関わったみんなのものとは言えなくもない。だからその人たちの記憶にはあっても、「私」の記憶にはない。いのちは、本来、誰のものでもない、「生物を連続させていくもとになる力」なのである。人間だけ、と言ってよいのか私は知り得ないが、自我を持った後も私たちは、「この」いのちによって生きる、生かされる。そしてまた、このいのちの表現を実現しようとする。だが、このいのちには力尽きる時が来る。そのことを知って生きるのが人間である。自分のものと思い込み、生存期間の先延ばしを図ろうとする。いのちのそうした所有に対し、ひとりひとりが、いのちが未だ自分のものではなかった時があったことを知り、所有されざるいのちと向かいあうところから、いのちとの対話が始まることを長沢は願っているのではないだろうか。

 最後に、長沢の油彩画について。2019年にこの「25年あと(未来)の記憶」が丸木美術館で展示された折には、油彩画の一点が、広い壁の天井近くに架けられていた。目の高さに架けられた一連の素描を壁沿いに見てまわったあとに、私は展示室のほぼ中央に立ちそれを仰ぎ見た。ひとつの「眼」がそこにあった。

 長沢の油彩画といっても、半世紀近い制作歴を見渡して言うものではない。「対話」という思考とその実践のなかで創出された「絵画」のことである。すべてを見てきたわけではないが、長沢という作家は、絵を描くのではなく絵をつくる人、絵画を謳うのではなく語る人、私にはそう見える。それは、絵画という存在と向かいあう、対話を続けてきた人と言い換えてもよいだろう。このプロジェクトにおける絵画も構造的には明瞭である。構造は、コピーのコピーたる彼の素描をさらに拡大コピーしたモノクロームの下層の上に、何色かの色の点が覆うように重なる二層からなる。ここでの絵画は、生者と死者との対話を構造化するという基本的なコンセプトから生まれたものと捉えてみる。対話を描くのではなく、対話をどう現わすか、どう語れるかの問題である。素描については私の見る所をすでに述べたが、二層構造という点から、長沢と写真プリントとの関係に立ち返ってみる必要を覚える。

 写真に写るものを幽霊と見る彼の見方はすでに言及したことだが、加えて、その幽霊たちと眼が遇うと彼は言う。それは、長沢個人によることではなく、カメラという機械の眼のなせるわざである。カメラに向かってポーズする人たちはレンズを見つめているので、カメラから引き出されたプリントを見る人の視線と交叉するのは当然のことなのである。写真を見ている人も、カメラの眼を通して見ているということである。すでに見たように、このカメラという機械の眼を長沢は「死者の眼」と言う。昔の人は、写真に撮られると魂が抜かれると言って恐れたが、迷妄どころか、写真に写った自分が死者のように見えた覚えは誰にもあるだろう。長沢の創造活動の原点は、この実感の真実にあると言っても過言ではないだろう。一枚の写真は、この対話プロジェクトにおいても、それなくしては始まらない、必須のアイテムなのである。対話は、一枚の写真という他者的存在から始まる。そこから彼に触れてくる死者の眼差しへの応答として彼の素描はある。いや、それはもはや、「彼の」素描とは言えない。対話においては、自分が自分であり続けることはできない。アイデンティティを放棄し、他者の他者として可変の者でなければならない。素描において長沢は、一人のデクノボウ、非人称の身体として、機械のように、身体なき死者の身になって応答する。この、非人称の生者の触覚的眼差しによる素描をキャンバスに拡大転写したものがモノクロームの下層となる。

 対話の双方向性から、そこに死者の眼差しを重ねたものが、彼の「絵画」となる。死者の眼差しと言っても、長沢の体験に基づくものであることは、言うまでもない。死者の眼差しに気付いたところから、その眼に現在の自分はどう映るかを考え、想像する。それには彼自身が、生きながらにして死者になってみなければならない。オカルトめいて聞こえるかもしれないが、そのこと自体は、決して奇異なことではない。私たち誰もが、未来の死者であり、だから死後のことまで考える。誰もが死者を自分の内に持っている、と彼は言う。事実、確実にやってくる死に向って私たちは死者を生きている。そのことを気付いているから、その事実に蓋をしようとするだけなのだ。しかし、それでも、「不意打ち的」に死者の眼差しに気付かされることになる。死者の眼を通ってきたものが不意打ち的に生と繋がったという彼の体験は、写真を見ている時の彼が、心ここにあらず、時の世界の外にいたということではないか。それにしても、「生」は「不意打ち的」と言われるごとく、なぜかくも直截的に見出されるのか。

 死者とはみずからの肉体を失った存在、それゆえに触れることも、触れられることもない、ただ眼に現れるだけの存在である。触れることのできない死者にとって、生者の現身(うつしみ)は無いに等しい。死者の眼差しは彼の現身(うつしみ)を透過し、何にも遮られることもなく果てしなく未来へと向かう。私たちは死んでいく瞬間に、生きられた過去のすべてを眼にするとも聞くが、死者の眼に映る世界は、一切の制限も対立もない、向かいあう外部のない全一的な永遠の現在であろう。だからこそ、死者の眼差しは、かつて彼らが生きていた時を想起させる「未来の記憶」として、懐かしくも生者の「生」に向かうのであろう。長沢に「不意打ち的」に見い出された「生」とは、「未来の記憶」としての長沢の「生」だったのではないだろうか。

 「未来の記憶」に因んで、参加者から提供された一枚の写真の幼児の視線に着目して語っている。震災直後の瓦礫の山と向かいあう後ろ姿の両親をよそに、父親の肩越しにカメラを見ている幼児と目が遇うと言う。25年前のその幼児から見れば、自分は25年後の「未来の記憶」だと語る。また、制作ノートに「未来の幽霊」という物語がある。学生たちとの飲み会の場面、席を外して戻ってきた彼を誰一人気付かない。別の世界に来たようで、よく見れば、彼らの顔つきも変わっており、なかには赤ちゃん連れもいる。自分はもういないのだと思った瞬間、一人の赤ちゃんと目が遇い、笑って見せるとその子も笑顔を返してきたと。死者たちの眼差しにも似て、「私」が未生の存在や動物たちの自由な開かれた眼差しだけが、その遥かな生命記憶から、姿なき生の痕跡に気付くのであろう。

 彼の物語はフィクションには違いない。しかし、似たような体験を持つ人は私だけでもないだろう。私事ながら、母が遺したアルバムの中に、私が生まれる前の若き母の写真を見つけた時のこと。知るはずもない母を、何の不思議もなく私は視認する。だが、若き母の眼差しは、息子に気付くこともなく、はるかな彼方へ向かっているように思えた。でもその時、数え切れないほどの母の記憶とは別に、彼女から受け継ぐものを身の内に実感したのである。

 長沢の絵に戻ろう。死者にとって懐かしい生者の生、「未来の記憶」をどう現わせばよいのか、どう語り出せるか。モノクロームの下層と違って、上層は色の点からなるとおり、長沢は色という存在をあらためて見出す体験があったものと推察する。「未来の記憶」のための「現在=生の痕跡」として、あらためて色という存在を。すでに以前から、長沢が色彩というものを、視覚の対象としてではなく、眼の感覚に現れるものとして考えてきたことは、私(の視覚)が見るのではなく、眼そのものが見ることを意味する「メガミル(眼が見る/巨大な粉砕機)」という言葉を造っていることからも明らかである。ここでは、現われとしての色が、「未来の記憶」という文脈でとらえ直されているということである。

 対立と限界の世界の中で、私たちの目、視覚は、物の色を見ている。だが一方では、「色付く」とか「色めく」、「色を帯びる」といった言葉が今も意味をもっているとおり、私たちは、まだ生れながらの感官としての眼を失ってしまったわけではない。これらの動詞形の言葉があるように、色は現われるもの、現在形しかない、つまりは、現在そのものと考えられる。もの心がつく以前の幼児が、形よりも早く色に感応するように、私たちの生れながらの開かれた眼は、現われとしての色を受けとめるために具わったものではないだろうか。それはともかく、こうした現われとしての色が、いのちの現在たる「生」と、不意の、開かれた眼「メガミル」の中で繋がったとしても不思議ではない。「はるか遠くのかなたから弱々しくとどく光のようなもの」と長沢が言う生命の源としてのいのち、そのか細い光明に浮かび上がる個体の振動たる生。その揺らぎの影として眼に現れるのが、純粋に「色」と言われるものではないだろうか。ここに、色は生を現わす「メディウム」、純粋な言葉となる。そうして現れる現在としての色/生の痕跡として、キャンバスに色の点が打たれていく。だがその点はどこに打たれるのか。

 彼の画室が私の想像に浮かんでくる。下の層が拡大描写されたキャンバスが画室に置かれてある。見るともなく、向きあうこともなく眼にした画面のある個所が眼に入る。モノクロームの画面に色めき揺らぐものが見えた、あるいは、死者の沈黙の声が聞こえたと言うべきか、彼が意識するより早く、彼の生の影がそこに落ちていたのであろう。我に返り、身体を取り戻してそこと向きあい、対話の痕跡を記す。この点を打つ作業は、死者の開かれた眼差しと生者の身体との協働作業に思えてくる。いや、開かれた眼と限りある身体とがともに取り戻されたところでの対話の関係が実現されていると言うべきであろうか。

 「誰がいったい私たちをこのように振り向かせたのか?」                            長沢の対話について考える時、私の頭の中にこの詩句がリフレインされていた。リルケは『ドゥイノの悲歌』で謳っている(註6)。あらゆる生きものが自由な開かれた眼で一切を見ているのに、人間だけが、開かれた世界から閉め出されたように、対立と閉鎖と限定と別離の「時」の世界で、いつも「向かいあっていること」が人間の運命なのだと謳った詩人は、その運命に積極的な意味を見出し使命に転じて謳う。あるあらゆる存在が、この地上に一度だけあることの素晴らしさを、彼らに代わって語ることを私たちは委託されているのだと。向かいあう私たちの運命を、積極的な使命に変えるところにこそ「対話」は始まるのではないだろうか。

1.  鷲田清一『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』TBSブリタニカ、1999年

2.  山形孝夫『死者と生者のラスト・サパー』朝日新聞社、2000年

3.  柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン-闇を歩く批評』岩波新書、2019年参照

4.  若林奮『W-若林奮ノート』書肆山田、2004年

5.  三木成夫『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院、1992年

6.  ライナー・M.リルケ『ドゥイノ悲歌』第八、九歌。『リルケ全集3』富士川英郎訳、彌生書房、1973年参照

長沢秀之本人の言葉は、『未来の幽霊-長沢秀之展』図録(2017年、武蔵野美術大学美術館)と『対談「私が生まれたとき」神戸 25年あと(未来)の記憶』(2020年、対話「私が生まれたとき」実行委員会)から引用した。