展覧会カタログ<カタログ>テキスト:椹木野衣「夢はなにからできているのか」下記参照                   NECROPOLI – ISlAND          C-Transmission Drawings Ⅱ                                                                            

展覧会カタログ<カタログ>テキスト:椹木野衣「夢はなにからできているのか」下記参照                   NECROPOLI – ISlAND    C-Transmission Drawings Ⅱ  

2024年5月12日

夢はなにからできているのか

――長沢秀之『C通信』のボディ

椹木 野衣

 2022年の秋になんの前知識もなくギャラリーMoMo長沢秀之「『C通信』-目の記憶-」を見たとき、とても奇妙な感覚がしたのを覚えている。その感じをうまく言葉にするのは難しい。ただ、感じたままに言えば、会場に一歩入った瞬間、なにか外の世界と位相がずれているような気がしたのだ。もちろん外の空間から独立した美術の展覧会なので、多かれ少なかれそういうところはあるのだけれども、ここでわたしが言いたいのはそういうことではない。どんな展覧会でも物理的な要素で構成されている(ニュートン力学によって支配されている)ので、その点では外の空間と地続きなのだが、この時の長沢の個展は、空間そのものが物理的な法則からずれているように思えたのだ。

  あとでわかったのだが、この個展で長沢が絵を描く材料にしているのは、夢の世界なのだという。それを知ってピンと来た。あの個展で会場の外と内とを隔てているのは、単にギャラリーの内部が美術作品によって満たされているからというのではなく、外の現実に対して内側が夢の世界のようになっていたのだ。確かに夢の世界はニュートン力学によって支配されていない。ボールを投げたからと言ってそれが放物線を描いて落ちるとは限らないし、場所は瞬時にして移動し、時間はいったり来たりを繰り返す。

  そのような非物理的な世界が芸術の領域を触発しないはずはないから、古来より夢は多くの画家にとって絵を描く大きな動機づけとなってきた。20世紀初頭に起こったシュルレアリスムなどはその最たるものだろう。けれども、シュルレアリスムの多くが、夢に登場する「不可思議な世界」を、あたかもそれが現実の世界に出現したように、言い換えれば物理学の法則に沿って「具象的に」描いているように見えるのに対して、長沢のそれははっきりと違っていた。具象でもなければ抽象でもない。というのも、両者のあいだの区分けは所詮わたしたちが覚醒している世界でのことでしかなく、この意味で長沢の絵は、そのいずれもが成り立つ世界とも違う、もう少し突っ込んで言えば、そのいずれであってもさしたる変わりのない、もっとあいまいな仕組みに則って成り立っているように見えたのだ。

 このような「あいまいさ」は夢の特徴でもあるけれども、大事なのは、この「あいまいさ」は、あくまでわたしたちが目覚めている時から見た「あいまいさ」でしかなく、実際に夢を見ている渦中では、それは決してあいまいなどではなく、むしろ切迫していたり妙に生々しかったりして、決して超現実的なものではない、ということだ。なぜ、このようなすれ違いが起きてしまうのか。それは、わたしたちが夢そのものを、目が覚めている時に「記憶」としてしか思い起こせない、という性質に負っている。つまり、わたしたちが通常考える夢というのは、実際にはすべて現実の中での出来事にすぎないのだ。だから、夢について本当に考える際には、遥かに大きな転倒が必要になる。どういうことかというと、夢の方が本当の現実で、わたしたちが本当の現実だと思っている出来事の方が夢なのだ、というふうに認識を180度転換する必要があるのだ。そうすると、わたしたちが現実の中で寝ているあいだに見た夢を思い起こすように(=夢を現実に取り込んでしまうように)、夢の中でも、目が覚めていた時に起きた出来事を思い返している(=現実を夢に取り込んでいる)ということがわかるだろう。後者の立場に沿って見れば、夢は決して非現実的でも「あいまい」でもない。あいまいに見えたのは、現実の側から夢の世界を見ていたからであって、夢の世界から現実を見れば、むしろ現実の方がはるかに「あいまい」なのだ。

  冒頭でわたしが感じた長沢の個展の奇妙さとは、おそらくはそういうことであったに違いない。わたしがそのように感じたのは、夢をめぐる長沢の描き方が、現実の側から夢を描こうとするのではなく、夢の側から現実を描こうとする大きな逆転に沿って試みられていることによるのではないか。後者の立場に立てば、作品は決して個々のものとして完結しないし(=「ドローイングだけはやめることなく続いた」*)、通常の物理的な絵具で描けるものでもなくなる(=「えのぐを使った絵がおもしろくなくなった」*)。さらに重ねて長沢の言葉を借りれば、それが「これらの夢、もうひとつの現実を表そうとすると、それは絵でも鉛筆画ではなくもっと何か別のものを用意しなければならなくなる」ということになったのだと思う。

 だから、『C通信』で様々なメディウムがおり重ねられている(鉛筆、写真、Photoshop、プリント、ウェブ、展示)のは、「夢がそもそも現実のひとつなのだ」という転倒から来ているのであって、わたしたちが知る絵画のバリエーションをもっと増やそうとしているわけではないことは、しっかり認識しておく必要がある。「夢がそもそも現実のひとつなのだ」というのは、わたしの言い方では「夢の方が本当の現実で、わたしたちが現実と思っているのが夢なのだ」ということになる。だが、もしも夢が現実なら、夢が「現実」であるための(物理的な、というのとはまた異なる)材料が必要になる。おそらくはそれが長沢によってこの連作で呼ばれる「ボディ」なのだろう。それを持たなければ、そこで描かれた絵も、単に「美術のメディアの一環」となってしまう。

 このようなことにわたしが思い当たったのは、やはり新型コロナ感染症によるパンデミックが世界全体を、つまりは一人ひとりの現実を完全に覆い隠してしまったのが大きい。新型コロナによるパンデミックそれ自体が悪夢のようなものなので、おのずと人はそれとは別の現実を求めて、家に閉じこもったまま、夢の中の世界にその代わりとなる現実を求めるようになった。実際、わたしがそうであった。以前とは比べものにならないくらい夢を見るようになったのだ。これはその頃、周囲でもよく聞く話であったが、どうやら長沢にとってもそうであったらしい。

 そして改めて思うのだけれども、長沢の個展を、わたしが前知識をまったく持たないまま、あたかも白昼夢(見る夢を事前に推測することはできない)のように「遭遇」したように、絵を見るためには、時代の趨勢に逆行して、事前の情報はむしろない方がよい。あると、かえってつまらなくなる。それどころか見に行きたくなくなる、という心理が働くようになった。そういう点では、絵の見方そのものを変えている。もちろんそれは、わたしだけに起きていることではないはずだ。                                                             * 長沢のメモより引用