展示雑感 今回の展示は、ウェブで公開し、映像でもあるので、画廊でプリントアウトしたものをわざわざ見る必要もない、という意見もある。でも実際に見たら、ウェブ上で公開されたものとはかなり違っていることを体験できると思います。それこそがボディーにふれるということなんです。現物と想像力は背反しない。想像力が、あふれる画像と相まって、透明なほう、透明なほうへと追い込まれていくのですがそれは違う、と。画像投影は大流行りですがやはりそこにボディーはないと思うのです。環境があって、周りのものがあってそれははじめて成立すると言われますが、透明な環境をいくらつくっても現実は変わらない。ここに唯物論を持ち込まないと世界は何も変わっていないわけですよ。(10/11) 最薄の絵画かもしれない。最小限の顔料と紙という最小限の支持体による最薄の絵画とも言える。物質とバーチャルのどちらにも変換可能であり、その瀬戸際に存在するもの。(10/7) 今回の作品はある意味で絵ができるコンテクストを探り、つくっているのです。それはモダニズムのコンテクストから、もうちょっと自分の生きる場所に分け入った個人的なコンテクストなのです。過去に描いた作品が出てきますがそれがどういうコンテキストのもとで成立したのか、その感情を見つけるというか位置づけたいのですね。たしかにこういう感情があったと検証しているわけです。つまり今絵ができないわけをこうして探っているのですが、やはり絵はできない、そういうことがわかってきた。(10/15) 一番の大きな原因は時間が違ってしまったことにあると思う。たとえば、子どもの時代の時間と大人の時間では違います。大人の時間はものすごいスピードで過ぎて行くような感じがあるけど、子どもの時間は長い。ところがコロナがあってそういう時間の長さではなく、よじれてしまったというか、なんか別の次元の時間のなかに突入してしまったのではないかと思います。今までたたまれていてわからなかった次元の時間が出現するようになったのです。あるいは消えてしまったのかもしれない。もうこの時間は後戻りできないものです。絵の時間というのはそれはそれで長いようで短い測りようのないものですが、そういう中でなかなか今までのような絵はできなくなっているのが現状です。(10/18) 夢はシュルレアリスムにおいて無意識の領域を体現するものだったが、私の夢はむしろ現実にある意識であり、それは白昼夢や妄想に近い。昼寝のときや眠る前の目を瞑ったときにすぐに現われては消えていく。多くの場合がひとの顔で、そこからなにか別のシーンというか別の筋に入っていく。目覚めのために見ているような感じで、事実目覚めたあとでそれが思考の起点になる。一方、夜、寝入ってから見るもっとディープな夢はたいていが悪夢で、その恐さのために目が覚める。そして現実との関係を考える・・・いやそうではなくて、夢がそもそも現実なのだ。それは恐怖でもあり、幾分かの生還の安堵を伴ったリアルな体験なのである。年を取るにつれてこうしたできごとを受けいれるようになったが、単純にボケが始まっただけのことかもしれない。(10/20)