サイ・トゥオンブリの写真と霊媒、あるいはモネとケリー

日常

 昨年、NYに行った際にたまたま見たハードカバーの画集に目が引きつけられた。「モネとケリー」というClark Art Instituteの展覧会カタログで、それは今から14年前にパリで見た「マチスとケリー」という展覧会を思い起こさせた。マチスとケリーだったら、ドローイングの線の違いが際立っているから展示としてはおもしろい、だがモネとケリーとはあまりにも違いすぎて、これはいったいどういう展覧会なのだろう?と思って、ページをめくるとそこに目を引く絵とことばがあり、私はこれを躊躇…

栃木県美にヒュー・スコット=ダグラス展を見に行く

美術関連

 ヒュー・スコット=ダグラスの展示を栃木県立美術館に見に行く。  倒産寸前の映画館から買い取ったという35㎜劇場映画の予告編映像の断片に手を加えた映像が薄暗い会場に一枚ずつ映し出される。映画という物語の一コマは人であったり、ものであったり、何かの表面であったりとさまざまだ。そこに映画として存在していた物語の断片を一瞬見せて消えていく。暗がりの中で4台あったプロジェクターの前に座り、漠然とこの作品を見ていると“ああ、もう人間は終わったのだ”という思いが頭のなかをふとよぎる。 …

モランディとAI

美術関連

 私たちの知覚は、AI(人工知能)の登場によってどう変わるのだろうか?人間でなければできないような知覚方向にシフトしていくのか?それとも知覚の初期 化を反復するのだろうか?そもそも私たちの知覚自体が実はAI的(転倒した言い方だが)であり、それを今再確認しているに過ぎないのか?  モランディを見ながらこんなことを考えていた。いつもなら絵の具の官能性のことを感じながら見入っていたところだが、今回の展示では、同時に自分の知覚が問い直される気がした。その根底には人間が何を認識し、何…

「遠いこの惑星は私たちの場」(2016年卒、修了制作から)

美術関連

 この場所の、この惑星で起っていることの意味を考えながら、美術大学という場の新たな生成物を見て回る。私は過去に“サイボーグの夢”という展覧会を企画したことがあり、いつも作品をSFの文脈のなかに置いてみる癖があり、そう見て回ることは不自然なことではない。 まずはこの場所、つまり私たちが生きているこの地に特有の“印”をもった作品から眺めていきたい。岩崎由実の絵画は陰影の振幅とほのかな光という“印”をもっている。私たちが油絵具で絵を描こうとするとき、どうしても突き当たる問題があり…

ドローイングとことば−1

未分類

 私が生まれたとき、わたしはいも虫のようだった。  呼吸をしながら声を上あげ、声をあげながら呼吸をした。それがわたしのすべてであって、身動きもままならないいも虫のようだった。まだ、からだというものがなく、ただ呼吸する生きものだった。  そのうち手が生えてきた。手は一本で、食べ物をつかむためにそれを使うようになり、わたしは自分に手があることにふと気がついた。  それから長い長い夢を見て、夢のなかでわたしは初めて別の生きものを捕まえた。生暖かくて、懐かしいような、それでいてなに…