死者との対話は可能だろうか?
物理的には不可能であっても、例えば恐山のイタコのようにそこに対話の空間をつくることができないものだろうか。「心霊教室」のこだまを遠くに聞きながら、ドローイングと文章でその「対話」を試みたのがこの展示である。
展示は「私が生まれたとき、・・・」で始まる文章と、各人から提供していただいた写真をもとにしたドローイングからなっている。
文を書いた人たちは「ムサビる!」の学生であったり、私の友人であったりするものの、特別に選んだ人たちではない。また、その作成に関しては自分に関係した事実ばかりでなく、周囲の人のことや家族の話でもよいことにした。
個人に基づくものは可能とするが特定はしない、これが今回の方針で、それはフィクションや文と写真が別の家族との組み合わせになる可能性をも意味する。始まりは個人の思い出や記憶であっても、それは特定の人のそれに留まらず、歴史や他者への思いに通じるようにしたいと考えた。
そうして写真からドローイングをおこしていった。
一枚の写真にはかつての一瞬の時間があり、それが閉じ込められている。一方、ドローイングはたとえ一枚の写真を見て描くにしても、時間を必要とし、しかもそれは同じ感情の時間ではない。私は揺れ動く感情の時間を擦り込むようにそのドローイングをつくり、文章に寄り添わせた。
写真の持っているひとつの時間を、今生きているこの時間につきあわせようと考えた。写真を反復することで、かつての一瞬のリアルさではなく、それと今の時間の距離のリアルさに近づこうとしたのである。