「未来の幽霊」展 [2017] カタログテキストー山本和弘

「未来の幽霊」展 [2017] カタログテキストー山本和弘

2022年1月6日

長沢秀之の新しい絵画についての一考察

山本和弘

距離という距離をあわただしく除去したところで、近さはけっして生じない。

                    —マルティン・ハイデガー『一九四九年ブレーメン連続講演』[i]

はじめに

 パリのマルモッタン美術館にあるクロード・モネの絵画《印象、日の出》の正面やや離れた位置にひとつのベンチが置いてある。近づいて画家の筆遣いや絵具の肌理などを熟視した後にこのベンチに腰を下ろすと、画面がさざ波のように揺れ出す瞬間に私たちは立ち会うことになる。このベンチは鑑賞に疲れた肉体に休息を与えるためのものではなく、絵画を見る眼差しを介助するための視覚補強具としての役目を果たしている。ここで補助しているのは眼差しと絵画との肉体的距離の把握である。

 小論は従来の絵画言説では等閑視されてきた眼差しと絵画との肉体的距離、そして絵具とカンヴァスによる像基体[ii]と眼差しとの躍動的な現象関係を批評的かつダイナミックに作品化した長沢秀之の新作絵画群を読み解く試みである。

1. 新しい絵画―写真と映像を批評的に止揚した絵画

 まず通常の距離をとって像基体から像が現象する過程を記述してみよう。

新作群においてはほぼ同じ太さの短い筆致の集積が画面全体を覆っている。長沢自身は本展カタログに寄せたエッセイで「絵の具をおくにつれ、下層の像は消されていく」と述べる[iii]。しかしその筆致が密であると同時にまばらでもあるために画面の後景は覆い隠されながらも、それを前景の隙間から透かし見ることができる。作品そのものに対峙する私たちがそこに見るのは1980年代の長沢の流麗でペインタリーな筆致が微分化されたリズミカルな集積による前景である。すでにこの段階において後景のカンヴァスに塗られた絵具という像基体を隠しながらもその像現象[iv]を露わにするパラドキシカルな方法が際立っている。長沢はこれらの筆致を、カンヴァスを90度ずつ回転させながら、機械的に置いているという。しかしそこから現象するのは隣接する筆致どうしの絶妙に制御された色彩の混交と絵画特有の触覚的肌理である。極めて有機的に醸成された絵画以外の何物でもない絵具の肌理である。さらに「絵の下層の図像とは全く関係なくランダムに絵の具をおいていく」と長沢は述べるのだが[v] 、このように熟成された像基体から現象するのは、すでにみた機械的な筆致の布置とは対極にある厳しく統御された筆致のコンステレーションとその網目のような間隙である。

ここで長沢の二層化された絵画がもたらすとまどいは自然的態度での安楽な絵画ではなく、絵画の鑑賞において不可欠な肉体の移動、またはその運動をショートカットしていることを私たちに気づかせることから発している。優れた絵画の鑑賞において、私たちは自然的態度で絵画を見ることはない。自然的態度とはリンゴが描かれた絵画とか人物が描かれた絵画という判断が日常的生活レベルの判断と同一次元で行われている態度である。そのような態度で安楽にみられる絵画は優れた絵画ではない。私たちは自然的態度ではなく、自然的態度を括弧に入れ、現象学でいう鑑賞的態度を優れた絵画の前では「自然に」とっている。より正確には肉体の運動の結果として眼差しがあることを自然に括弧に入れているのである。よって自然的態度を括弧に入れる行動を絵画自身が呼び覚ます構造を長沢の絵画は介助するのである。ただしその方法は極めて実験的で挑発的でもある。なぜなら「立ち止まる」を意味するエポケー(括弧に入れる)を長沢の絵画はあえて解除しようとしているからだ。

ところで私たちはエドゥアール・マネやジャクスン・ポロックの筆致を記憶しているだろうか。おそらく特定の作品の像現象の切断面としての全体像を思い起こすことはできても、筆致の特色を思いだすことは困難だろう。なぜなら像現象の切断面は絵画として一般に共有されているが、像基体の細部は記憶の後景に退いているからだ。さらに展覧会カタログや作品集などの複製では像基体は拡大図として再現されることはほとんどない。複製的に再現されているのは切りとられた像現象の一部にすぎない。

さらにほぼ同じ太さの短い筆致はほとんどの作品で共通している。各作品は褐色系、青系、橙系などに収束する単色系が基調となっており、ときおり補色を加えながらも彩度を抑制した断続的な色面はあたかも印刷物に変換された写真の退色が進行した状態にみえる。実際には単色系の濃淡ではなく、補色の比率を極端化した後の単色系といえる。例えるならば色相環の中心からその円周付近まで漸近しがらも決して単色域に落ち着くことのない自立した種々の色彩が混交した状態である。写真の銀塩が酸化して最終的に褐色化していく時間の経過を色彩の混交と筆致によってシミュレートされた絵画の被膜が前景に形成されている。よって長沢自身が覆い隠すと述べる行為に反して、分散的筆致によって後景の写真を描いた絵画と対等の絵画的被膜、あるいは透過性のヴェールを前景にまとわせていることになる。

より階層的に記述すれば以下のようになる。前景のほぼ同じ太さの短い筆致と緻密に制御された色彩が後景を透かしながら覆っている物理的事実に反して、覆っている当の前景が実は後景の画面を拡大して、目では知覚しえない極端な倍率で像基体と眼差しとの距離を現象させている。したがって、これらの筆致の集積の背後を見ようと画面に私たちの肉体を近づければ近づけるだけ後景のフィギュラティブな写真絵画には近づくのだが、あたかもゼラチンの海にたゆたう銀塩粒子の断続的なダンスと同化したような後景の絵具の肌理からは遠ざかるアイロニーが生じることになる。このとき私たちの眼差しのみならず肉体そのものが知らず知らずのうちにカメラのレンズのようなズーム運動を繰り返していることになるのである。

ここでいう運動とは作品との適正な距離を獲得するための肉体全体の移動である。肉体の移動に伴って眼差しは躍動する。ここでジル・ドゥルーズが他メディアにはない映像の特質をベルグソンの運動についての思索をもとにした次の記述に着目することは私たちの考察にとって有益であろう。

ひとは空間内のいくつかの位置あるいは時間のいくつかの瞬間によって運動を再構成することはできない。換言するなら、動かない諸「切断面」によって運動を再構成するということはできない」[vi]

この「できない」を可能にするのが映画である、とドゥルーズは結論づけているのではない。そうではなくてドゥルーズの結論は「映画は、偽りの運動の典型的な実例」なのである。この点においてまさに長沢の絵画は動かない諸切断面を接続する絵画を生み出しているのである。映画は世界そのものの躍動を記述する手段ではなく偽り、とベルグソンがいわざるを得ない状況を出現させる。だが長沢の絵画を前にすると私たち自身が運動を惹起させることになる。写真がシーケンシャルに連鎖する映像というメディアによっても、座席が固定された映画館という装置でも再現不可能な眼差しの移動を肉体とともに躍動させる装置、それが長沢の新作絵画である。

2. パラドックス・ビュー

 先に例にあげたマルモッタン美術館もまた世界中の一般的な美術館、より正確には絵画館と同じく回廊式に作品を巡っていく構造になっている。右から左へ、あるいは左から右へと一つの作品から他の作品へと私たちの肉体は、大量動員を狙った企画展主体の美術館ほどではないにしろ、ベルトコンベアに乗せられたかのように絵画との等距離を保ったままその前を経時的に移動する。

 この回廊式鑑賞という近代的制度から解放されたとき、作品との適切な距離は何かという問題が生じる。通常、私たちは絵画の全体を眺める位置、ちょうど写真におけるカメラの位置に身を置き、鑑賞行為を行うだろう。だがその位置にとどまることなく作品に近づいて画面の細部をみることもできる。私たちは像が十全に現象していることだけに満足せずに、像基体の触覚的肌理を確かめたいと思う。そして作品に近づき細部を見、また離れて全体を見る、という行動を繰り返す。これが意味するのは像が現象する全体と像基体の各部分が一致することはないということだ。像現象を体感しているときには像基体の細部は見えず、逆に像基体の細部を見ているときには像現象全体がみえないというパラドックスが生じる。詳述する紙幅の余裕はないが、このような像基体の細部への鑑賞者のこだわりは絵画のみではなく写真も同様である。しかし映像は像基体へのこだわりはほとんどない。

 像基体と像現象の二重の鑑賞、しかもそれらを同時に鑑賞することはできないという意味において絵画は、いわばパラドックス・ビューを宿命としてもつ。しかしながらこのパラドックス・ビューを絵画の問題として措定し、その解決法を絵画そのものへとフィードバックした絵画はこれまでにはない。長沢が画像属の三種すなわち絵画、写真、映像の中でも特に絵画に顕著なパラドックス・ビューを近代主義絵画の継承問題として見出し、当の絵画そのものにおいて解決する作品を創出することを可能にするのは、写真と映像との差異を探求した結果である[vii]。パラドックス・ビューは一種の視差と解されがちだが、あくまでも対象の知覚における眼差しと像基体との距離と運動の問題を包含するため絵画鑑賞における一種のアンチノミーをも形成する。

 ここではイリュージョンの逆転も起こっている。一般に優れた絵画作品の前では自身の存在を無にして私たちは鑑賞に没入する。そのことによって三次元の再現ではない絵画固有のイリュージョンが生じ、それが絵画の価値といわれることは周知のとおりだ。しかし長沢の絵画は没入によって鑑賞者自身が無になるという形而上学的言説をこそ批判している。なぜなら没入してもなお鑑賞者の目は絶え間なく動きまわり、肉体は呼吸し、心臓は脈打っているからだ。そして没入が視覚的ピラミッドの頂点にある不動の一点において生起しているのではなく、その頂点自体が躍動し、視覚的ピラミッドそのものが躍動している事実に立ち返らせる。

 ところで絵画制作時における画家と作品との距離は、鑑賞者には不可知であり、鑑賞者は本来その距離の自由を確保しているはずである。しかし絵具の筆致や肌理の集積が何等かの形象を現象させる絵画固有の構造のために私たちは絵画との適正な距離を保つことを要求されてきた。このことは写真と映像には妥当しない。カメラと被写体との距離は鑑賞者とプリントやスクリーンとの距離の代理物となっているからだ。ここに写真における引き伸ばし作業を付加しても事態は変わらない。制作中に前後に移動していた距離は壁から等距離で写真を鑑賞する鑑賞者の代理物であり、椅子にすわって映像を見る鑑賞者は身体の移動をカメラにシミュレーション的に委託した状態にあるからだ。よってパラドックス・ビューは像基体を写真や映像よりも重視する近代主義絵画特有の傾向であることを長沢は新たな絵画で明らかにしていることになる。

3.  拡張された絵画概念―像基体と画像との現象関係

 「作品(絵画)の主題は絵画である」という1983年に長沢自身によって表明された明快なコンセプトは、長沢の絵画は「絵画の絵画」であることを意味している[viii] 。換言するならば絵画を主題とする画家とは像基体と像現象をその緊密な現象関係において探求し続ける人という意味での絵画原理主義者であるということだ。この厳格な原理主義者は凡庸な原理主義批評が持ち上げる絵具とカンヴァスに固執する安楽な絵画を破壊する。例えばドナルド・ジャッドの仕事もロバート・スミッソンの仕事もジャクソン・ポロックらの絵画を正統に継承するという意味において絵画原理主義的である。ただし彼らは絵具とカンヴァスという像基体を絵画が放棄せざるをえない時代と環境に適応した。対して長沢の絵画は絵具とカンヴァスを堅持し続けている点においてジャッドやスミッソンとは異なる。絵画が絵具とカンヴァスという像基体を堅持しながらも、絵画、写真、映像が共存する像の現実環境へと画像一般を拡張して探求しているのが長沢の絵画なのである。

 絵画が絵画であることを担保しうる客観的事実はない。すなわち絵画が絵画であることを絵具やカンヴァスという物理的実在が素朴に担保するものではない。よって絵画が絵画である事態は、一般的ではなく特殊的にのみ妥当する。長沢は平面性および二次元性は絵画だけの特性ではなく、平面性と二次元性を共有する芸術である写真と映像、すなわち画像一般ととらえ、その自己批判を強化したといえる。いうまでもなくメディウムは絵画と写真と映像では異なるが、メディウムは進化しながら自己を相互に批評し合う。

この意味において、長沢の絵画は写真をメディア進化論的に「退行」させて絵画を蘇生させたゲルハルト・リヒターやジグマー・ポルケの絵画とは異なる地点から絵画を進化させる絵画なのである。一種のメタ近代主義絵画といってもよい。当然ながらリヒター、ポルケの方法は写真と映像を参照しているので、長沢の方法と近いとみることも可能だ。しかしその方法と実践は異なる。

 共通点と相違点を確認しよう。絵具とカンヴァスという基本メディウムを放棄せずに踏襲する点においては共通している。リヒターとポルケは絵画から写真、映像への進化プロセスにおいて、進化したメディアがもってはいるが先行メディアがもちえなかった特質を退行的に先行メディアにフィードバックさせることによって絵画を蘇生させた。対して長沢は同じく写真と映像を批評的に絵画に取り込むのであるが、時間と距離と運動に対するそれらの差異から近代主義絵画への批評的距離を測る。そこでは鑑賞者側の運動が要求されるために、作品と鑑賞者の距離を従来どおりに保つリヒター、ポルケとの差異が際立つ。

 他方、機械的な複写法にも共通点と相違点がある。複写元と複写先のサイズを同じに保って視覚から手へと通じる機械的な指揮系統ではなく、小さな写真を大きなカンヴァスに目と手で人工的に拡大する点はリヒターと共通する。複写機の拡大機能を繰り返して得た網点をスライド投影してそのドットを丁寧に機械的になぞるポルケとも共通している。だが長沢はその両者をたんに統合するのではなく、倍率の異なるの画像の重層化という行為を絵画に付加する。このことは写真にも映像にもなしえず、絵画にしかできない事態だ。倍率の異なる複数の画像を同時に見ることは写真にも映像にもできないからだ。長沢の絵画における倍率の変更は光学機器のズーム機能にではなく、私たちの肉体に取り戻されている。画像属の一種としての絵画ではなく、絵画、写真、映像の三種の上位カテゴリーとしての画像属そのものへと長沢の絵画は拡張されている[ix]

4. 再びパラドックス・ビュー — ミクロ的視覚とマクロ的視覚の重層化

 私たちが長沢の新作群を前にして陥らざるをえないジレンマは、写真を機械的に拡大して描いた絵画を知覚するマクロ的視覚と、ほぼ同じ太さの短い筆致によるシステマティックな筆致の集積によるミクロ的視覚を同時に知覚している現実と、従来の絵画一般ではそれが困難であったこととの落差において生じる。従来の絵画であれば近寄れば筆致や絵具の肌理などがはっきりと知覚され、距離をとるにしたがってそれらの知覚が遠ざかり形象の認識が充実することとが連続している。対して長沢の新作群では細部の拡大としてのシステマティックな筆致の集積があらかじめ与えられており、近寄って写真絵画の描かれ方を見る必要がないように配慮されてもいる。ここでは視覚を担う肉体の運動と躍動が絵画そのものから要請されている。

 次いでより仔細に後景を透かし見れば、写真は絵画的筆致ではなく写真の乳剤的平滑さで描かれていることがわかる。システマティックな筆致の集積の網目の彼方に見える写真の描かれ方はやはり近寄らなければわからない。近寄ったときに露わになる写真的平滑な描き方とあらかじめ拡大された筆致や絵具の肌理は等質ではない。前景はペインタリーで後景は写真誕生直前に写真を待ち焦がれた画家たちの平滑な絵具の肌理のようにみえる。すなわち写真と絵画が重層的に共存しているようにみえる。まるでリヒターの写真絵画と抽象絵画のように。しかしリヒターはそれらを並置することはできても、重層化することはできなかった。

 ここで長沢の絵画は二通りの見方が可能になっている。ひとつはいかに写真的肌理にみえようともそれらは絵画的筆触の集積であり、ミクロとマクロの対比が強調されているという見方だ。メディウムは絵具とカンヴァス以外の何物でもない基層を示す。それが長沢の絵画の絶対的特質でもあるからだ。すなわち拡大と縮小が同一画面内で同時に成立していることになる。後景の形象を構成する写真を拡大して転写したような筆触は、前景を覆うシステマティックな筆致の集積面と混じり合うことはなく、私たちは物理的には一体でも視覚的には二層化された絵画の構造そのものを見ていることになる。この二つの層は写真的平滑さと絵画的筆致という質的差異を保ちながらも、後景に覆いかぶさる前景が自らの層と後景とを同時に露わにすることを可能にしている。二層の質的差異は、複写機的拡大と顕微鏡的拡大ととらえ直せば、写真と絵画という同属異種の画像が同居しているのではなく、一貫してそこにある絵画という種を見ていることへと解消される。長沢は今日の画像環境を駆動する複写機と顕微鏡という光学装置を用いた絵画を描いているのではなく、複写機と顕微鏡の倍率を私たちの肉体そのものの躍動として見える状況そのものを絵画化しているのである。

 写真という所与の二次元平面を無慈悲に描いた絵画の層と、それを光学装置ではなく肉眼で極限まで拡大した筆致の集積層が、露わにすることと隠すことを同一平面上で明滅させる複雑な重層構造が、鑑賞者の肉体を安定した立ち位置に留まることを拒ませる。長沢の絵画がもたらすのは写真が内包する情念とは対極にある像現象の乾いたパラドックスの可視化という極めてフォーマルな実践なのである。

 長沢は絵画と写真と映像の三種の画像における絵画固有の眼差しの自由を再度獲得しようとしている。それは椅子に座った安楽な状態がもたらすものではけっしてなく、自由な肉体に担われた眼差しが自ら探し求めた末に獲得すべきものなのである。

 おわりに

 写真プリントの上に拡大された当の元のフィルムを重ねた状態を長沢の絵画は想起させる。それはまた映写機内のフィルムと像化されたスクリーンをあたかも映写機内のランプの位置から重ねてみた状況といってもよい。デカルトのいう脳内の小人がまたここで出現する。この事態は世界像の時代における絵画の特質を示している。すなわち絵画には写真や映像におけるフィルムに相当するものが欠如しているという事実だ。フィルムとは作者と何らかの対象との緊密な関係に閉ざされたある客観的なフィルターである。と同時に印画紙という遮蔽面とスクリーンという遮蔽面に対峙して、画像を批評的次元にもたらす。フィルムは現像や編集という対峙的批評にさらされ鍛えられ、最終的に像化されるからだ。フィルムは画像にとって批評的他者であり続ける。長沢は絵画に欠如した客観的他者としてのフィルム、すなわちほぼ同じ太さの短い筆致の集積を絵画として絵画に重ねる。フィルムは画像を完成に先立って批評的に画像と対峙させるクリテリウムなのである。像基体と像現象はここで互いに批評しあい画像として絵画を統合する。これは写真と映像がその機能においてあらかじめ持っていた批評性であり、絵画における批評的他者なのである。

 長沢の新作絵画群はこの批評的他者を絵画に招き入れたのである。

(やまもとかずひろ 栃木県立美術館シニア・キュレーター)



[i] Martin Heidegger”Gesamtausgabe Ⅲ.Abteliung:Unveröffentlichte Abhandlungen Band 79 Bremer und Freiburger Vorträge”Vittorio Klostermann,Frankfurt am Main, 1994,S.3、訳文はハイデガー全集第79巻『ブレーメン講演とフライブルク講演』(森一郎・ハルトムート・ブフナー訳)創文社、2003年、p.5による。

[ii] 小論では絵画を物理的客体と意識的主体との間に生起する像の現象関係ととらえる。
よって、像を現出させる物質的側面を像基体、像として現出した非物質的側面を像現象と表記する。

[iii] 本書、p.6

[iv] 註2と同じ

[v] 本書、p.6

[vi] ジル・ドゥルーズ(財津修、斎藤範訳)『シネマ1 運動イメージ』法政大学出版局、2008年、p.4。

[vii] この「属」と「種」という語をもちいた議論はカール・フォン・リンネの生物分類法に倣っている。例えばホモ属ネアンデルターレンシス種、ホモ属サピエンス種などのように画像属絵画種、画像属写真種、画像属映像種とここではとらえている

[viii] 第19回今日の作家展 内面化される構造」展(早見堯企画)カタログ(横浜市民ギャラリー)、1983年、p.40

[ix] 註5を参照。