ワールドカップとことば

ワールドカップとことば

2023年1月23日

 なんでサッカーワールドカップにこれほど興奮するのか?

 あり得ないこと、まるでマジックのような体の動きがあり、うまくいったかと思うとこれが相手の反撃を生んで失敗になり、逆に失敗から大きなチャンスが生まれたりするからか。あざなえる縄のように形勢がめまぐるしく変化し、希望と絶望が入り交じり、そこに国の歴史や、人間の浮き沈みが垣間見えるからか。とくに今回はドイツ、スペインを破った日本代表の奇跡的快進撃、ブラジルを破ったクロアチアの戦い、ヨーロッパサッカーを代表するフランスを二転三転する展開で破ったアルゼンチンと、滅多に体験することのない興奮と熱狂が渦巻くワールドカップだった。同時に、カタール開催までに過酷な労働で死んだ6千人もの死者があったことも忘れてはならない。スポーツへの熱狂とカタール政府への批判は両立する。その上で2つのことを振り返る。

 特に印象に残ったのはクロアチアのタフな戦いぶりとそのなかのふたりの選手だった。まずはユラノヴィッチ。日本がクロアチアに負けて前田が泣いていたときに、同じセルティックでプレイするユラノヴィッチが彼のもとに来て頭にキスをして声をかけた。「同じチームメイトであることを誇りに思う」と言ったそうだ。泣いてる前田に慰めの言葉をかける様子は世界中に配信されて多くの称賛を浴びたが、自分たちの勝利を祝う前に、たたかった相手にかけることばがあること自体がすごい。国同士の対戦以上に所属する地元チームの一員であることへの誇りと愛が強いことも同時に感じた。

 もうひとつはクロアチアがアルゼンチンに負けたあと、がっかりしている同僚にモドリッチがかけた言葉だ。

これは総集編でも収録されているが、慰めの言葉をいろいろかけたあとに「愛してるよ」と言った。ふーんこういうときに「愛してるよ」と言えるんだ、というか言うんだ、とこれは見ていて心が動かされた。モドリッチのプレイは37才という年齢をみじんも感じさせないタフでクレバーなものだったが、そのキャプテンシーもすごい。その試合後のことばがいろいろ収録されていて、まさに体とことばがともに生きている、と感じた。

 と、ここでテレビを切り替え、ニュースを見ると日本の重要な政治の話があり、いつもの官房長官が出てきて下を向いて原稿を読む。ほとんどこちらを見ない。前の官房長官もエラそうにしていたし、その前も原稿読むだけで、記者の質問があるとすごくバカにしたような応対で素っ気なくことばを出していた。いや、ことばなんていうもんじゃない。政治家みんながこちらを見ないで原稿を見て口をぱくぱくしているだけだ。このひとたちは一体何を言おうとしているのか?

 前の前の総理がことばを徹底的に破壊したことはたしかだが、それからほとんどの政治家がことばをしゃべらなくなった。人を見なくなった。小学生だって「相手を見ながらしゃべる」ことを覚えるし、みんなそうしておとなになる。そうして社会は成り立っている。ここでは政治家がそれをしていない。それに対して文句もない。ことばに出さないからもちろん議論だって成り立たない。あの人たちはほんとうはことばの意味を知らないで言っているだけではないか?とも思えてくる。その意味を知っていたら、たとえ政治家でも思い入れや強く訴えたいことなどがあり、それが表情にも出てくるはずだ。でもただ棒読みしているだけだから、何も訴えない。フラット化、感情無し、つまりことばが意味をもたない。こうして見るだけ無意味な時間が過ぎていく。もしかしたらそのようにして政治への無関心を育んでいるのか。これこそが日本の得意技、ステルス陰謀論なのか。・・・つづく