“美術”よりは“生きること”、あるいはとにかく生き抜くこと、これがアートいう樹になった果実なのではないかと思う。それは多少苦いかもしれないがリアルな現実としてそこにあり、魅惑に満ちている。広島現代美術館での「ドリス・サルセド展」でもそう感じたし、森村さんのヨコトリでもやはりそう感じた。

 モダニズムがもつ“普遍性”という概念は重要だが、始めからそれを頭に置くとそれは美術内での問題となってしまう。“絵画性”をいくら強調してもそれはやはり美術史内での価値なのだ。この矛盾多い現実の社会のなかでそこだけ聖域としてしまうことにもなりかねない。それは確かに趣味に近いものだ。これを現実の生きている世界に取り戻すこと、これは意外に難しい。

先に上げたふたつの展覧会ではこの矛盾にとてもおもしろいかたちで応えていたように思う。

 サルセドさんは「私の作品は常に政治的暴力や戦争の犠牲者の証言から始まります。」とテキストに書いている。そこから作品がそうした人々への哀悼演説のような役割を果たすことを願っているとも述べている。展示の最初の部屋にある作品は、バラの花びらを一枚一枚縫い合わせて布状にしたものだがそれは色あせてひからびた血に染まった布のようにも見える。また一枚一枚の花びらが犠牲者の命を象徴していることも容易に想像できる。彼女の作品は直接的にその犠牲者を表しているわけではないのに強いインパクトがあり、見た人を深く動かすちからがある。

 展示会場にあるビデオのなかで自分の作品を語り、パウル・ツェランを引用しながら無意味なこと、あるいは無意味な行為によってしか人間存在を表せないということを語っていたのが印象的であった。コロンビアや紛争地域の過酷な政治状況を単純に告発するのではなく、一見無意味な行為を通してそこに関わろうとする彼女のアーティストとしてのあり方に鮮烈なものを感じた。

 森村さんのヨコトリもおもしろかった。アグネス・マーティンから始まって少し部屋を過ぎたところに釜ヶ崎芸術大学という集まりの展示を持ってきたところが普通の展覧会の常識を超えていて爽快。

“忘却”というテーマで、メルヴィン・モティの<ノー・ショー>を持ってきたところもすごい。カタログテキストで小説『エルミタージュの聖母』が今回の展覧会のコンセプトを構想する上で参考になったと打ち明けているが、芸術の意味を解き明かすように語られるこの文章も胸を打つ。

 福岡アジア美術トリエンナ−レをここに持ってきたことには「解釈」の重要さと広がりを感じたが、その中のアジアの作家のひとり、ヤスミン・コビールのフィルム作品はリアルで荒々しい迫力があった。映像はバングラデシュの船舶解体の現場を撮ったものらしいがこんな過酷な仕事があり、それを素手素足でやっていることにも驚かされ、目が釘付けになる。同時にこのビデオの光景は、こう言っていいのかわからないが、神話的で古典的な絵画のように美しい。人間が素手で鉄と格闘している、ほとんど奴隷のように働いて汗を流している人たちの姿が残酷ながら痛美しい。

 それは単純にメッセージだけではなく、なぜそこにアートがあるのかというその存在意義までも感じさせる。それはもう“美術”でもないのかもしれない。もっと切実な何かなのだ。それはジャンルづけすることができるものでもない。何とも名づけようのないもので、それはあまりにも深いところに沈んでいるものだから忘却されながらもふと記憶として浮上する。それを森村さんはすくいあげているように思う。

今回の作品の中で強烈な印象を残したポーランド生まれのアリーナ・シャポツニコフのガムの<写真彫刻>も然り。この人の彫刻は本当に怖かった!