絵がリアリティをもたない?

絵がリアリティをもたない?

2022年5月11日

絵がリアリティをもたない?                                    十数年も前、美大のアトリエで「えのぐはウンコだ」と言ったとき、多くの学生が一瞬戸惑いながらも笑い、納得する場がそこにはあった。えのぐは物質ではあるが極めてまれな物質である。ここでラカンの対象aを持ち出すまでもなく、えのぐを使って絵をつくっているひとたちは、直感的にこの意味を理解し実感することができた。対象aとしてあげられているのは乳房、糞便、声、まなざしで、身体の一部が破裂したようなかたちでしかイメージできないものであり、この世に客観的に存在しているものではない。だからえのぐが対象aにあたるかどうかはわからないが、それはここではどうでもいい。少なくとも絵をつくるものが「白いキャンバス」と「えのぐ」という不思議な物質と出会うことになり、それが欲望の対象であると同時に原因ともなりえると実感したことが了解されればそれでいいのだ。                     今はどうか?                                          無人島にひとりでいる人が「えのぐはウンコだ」と思ったりするだろうか?宇宙に進出した人間がこれを考えるだろうか?たぶんそれはありえない。人と人とのなにげない接触、それは摩擦や諍いも含めたものであり、文字通りの肉体的な接触でもある。他者との触れ合いでそれが薄くなったらこのことばは出てこない。人が人と話せば、つばも飛ぶし飛沫も舞う。エロもグロも交換する。それが今まであった人間の場だとすると、新型コロナによってそれは大きく変わってしまった。知らず知らずのうちに、この場は全く別のものになってしまった。対面であってもマスクで接することやテレワークの積み重ねの影響は、こちらで思うより遥かに大きくボディーブローのように腹に応える。静かに深く精神に作用している。          絵がリアリティを持たなくなった背景には、いつの間にか普通になった接触性の無さがある。そしてこれはコロナ以降急速に広まった「生の記憶喪失」症とも呼ぶ症候群の一種とも言える。少なくとも自分の中ではこれが進行していて、えのぐが遠い存在になってしまった。絵をつくることも見ることもリアリティが薄くなってしまった。もちろん画像イメージは氾濫しているし、世の中にはさまざまな色彩が満ち満ちていて、その多種多様の現実を享受してないわけではない。しかし色がない。世界がモノクロームに見えるわけではないのに色がない。これこそが記憶喪失なのだ。これを「生の記憶喪失」と呼んでもいいが、それが広い症候群なのか個人的なものかよくわからない。個人的なものだとして、かろうじてモノクロームのドローイングだけが残され、それはえのぐのウンコ性はないものの今抱えるイメージを紡ぐことはできる。いつの日か、再び絵が描きたいと思ってはみるものの、それがいつの日になるのか、あるいはふたたび廻ってくるのかさえもわからない。                                         友人はえのぐをそのエロス性よりも物質性によりながらその絵を展開していたが、これも絵の可能性を探るひとつの方向だろう。色の意味にはエロス的な“いろ”の意味と色即是空の色、つまり物質をさす意味もあるのだから、えのぐの色がエロスから物質にシフトするのはそんなに不思議なことではない。もちろんそれは工芸的な物質性とは違っていて、むしろ私たちの生の感性が物質に近いものになってきたことをうかがわせる不穏さがある。あるいはえのぐ自体がそのエロス性を変えつつあるのかもしれないが、それはとりもなおさず、人の物質的想像力の変化ともなるだろう。                          コロナ禍の目に見えない後遺症がはじまっていて絵はフリーズ状態にある。