NO WAR:死者もたたかっている

NO WAR:死者もたたかっている

2022年3月26日

SPORTの破壊ーAP通信から

 競技場には死者のたましいが渦巻いている。それは古代ローマのコロッセオ以来、ずっと続いていて、静かにアスリートを見守っている。観客のどよめきに混じって彼らのどよめきも微かに聞こえよう。最も輝かしいボディーをもつ生者とともに露と消えた死者がそこに集っている。

海の向こうではまた殺戮が始まった。バラバラになった身体は大きな暴力に対抗する。

 *No.68.69でこう書いたのは2022年の1月18日のこと。あっという間に最悪の殺戮が始まった。侵略とはどういうものなのか、戦争とはどういうものなのか。世界はそれを見せつけられている。それがオリンピックにつづくパラリンピックの開催中に起こったことがなんとも象徴的だ。スポーツとは人間がもっている暴力、闘争本能を和平的智慧に包み込んで成立するものであるが、そこに本物の戦争暴力をもってこられては、その意味もこっぱみじんに吹っ飛んでしまう。中国はこの面目つぶしをどうしてもっと怒らないのか。スポーツもなぜもっと怒らないのか。あれは平和の祭典ではなかったか。    パラリンピックの選手たちの道具、義足や義肢などは身体の延長として考えられ、身体の能力の可能性を引き出す。ところが戦争の武器は、たしかにそれも道具とも言えるが、身体の延長という面で見るならばあきらかにそれを超えている。たとえば銃ひとつをとってみても、それは身体の延長ではなく、殺すという観念の延長、具現化なのだ。兵器は道具を超え身体を消滅させるところまで来てしまっている。 

 もともと戦争はけんかのようなたたかいの延長ではなく、観念やイデオロギーのぶつかり合いで、それはどうしても相手がもっている民族、宗教の観念の否定、その人々の抹殺まで突き進んでしまう。またその根底には疑心、被害妄想、恐怖があり、容易にそれは洗脳や浄化と結びつき、ときに集団的なものとなる。独裁専制国家はとくにそこに行きやすい。たとえばある国家のミサイル発射、これを周辺国は「挑発」と言うがはたしてそうなのか。挑発に乗って大国がせめてきたらこの発射国はひとたまりもない。挑発に乗ってくれないように「挑発」していることになる。恐いのだ。恐さに狩られて非道なことをする。その恐さをつくっている点ではNATOにも責任の一端はある。自由主義をうたい、多数決の民主主義を進めていく以上、どうしようもなく止めようにないこの広がりは独裁専制国家から見たら恐いに違いない。其の被害妄想と独裁国特有の理想国家幻想がひとの死など顧みない非道な殺戮を招くのだ。これはアジアの問題でもある。

 今のロシアを見て、日本もかつて同じ道を歩んできたことを思い浮かべる人は少なくないだろう。こんな感じで学徒を動員し、若い人を戦地に送り込み侵略戦争を起こし、殺戮を初めたのだ。もちろんそれはおかしいと感じていた人も、兵士もいたであろうが、戦場に行けばそんなことは言っていられない。侵略される側も相手を殺さなければ自分たちの国を守れない、と思う。殺そうとする双方のひとりひとりが普通の人だというところに戦争のほんとうの恐さがある。                            そして現代の戦争は死者が見えにくい。破壊と避難民の姿はよく映し出されるが死者の姿はぼかされ消される。ドローンが発達し、兵器がすべてロボット化する戦争のその前兆として今の戦争がある。だからこそ観念の暴走をくい止めなければならない。この世界に生きているものすべてがこれをくい止めなければならない。そして死者もまたこれをくい止めようとたたかっている。観念の暴走を止めるのはからだなのだ。   血と土にまみれ、無惨に死んでいった兵士や一般市民は、悲しくそこに横たわっているだけではない。死者たちはそのからだをもって観念の暴走にあらがい、幻想(武器)をもてあそぶ戦争を止めようとたたかっている。