原爆の図 丸木美術館で原田裕規の「写真の壁:Photography Wall」という展覧会をやっている。原田自身が集めた写真プリントを展示したものだがこれがおもしろい。それらの写真は原田自身が産廃業者から集めたもので、その廃棄の量の膨大さにまず驚く。展示されているのは捨てられた写真なのだ。その捨てられた写真の一枚を原田が選んで自身のサイトに表示する。そうすると、写真は何か不安定な、得体の知れない感情をもったものとしてそこに現れる。写真に問う―なぜあなたは私を見つめているのか?と。

 

 

 少なくとも彼のサイトを見て私はそう思い、展示を見に行った。

 展示は壁にかけたいくつかの写真と無数の写真の壁、それから膨大な量の廃棄された写真の三つで構成され、最初のふたつは垂直に、写真の山は机上にランダムに置かれ、観客はこれを自由に手に取って見ることができるようになっている。

 私は3月に行った仙台の写真洗浄のボランティアのことを思い出していた。そこは東日本大震災から続く、被災した写真の洗浄を全国から集まるボランティアとともにやっているところで、その時は広島豪雨の際に泥水などでよごれてしまった写真を洗浄していた。

 写真プリントが持ち主の死や何かの事情により、一方で廃棄され、他方で廃棄寸前のところで救われて持ち主に戻る。共通するのはその膨大な量だが、そのひとつひとつを見ていくと、プリントの奥に集積された思いや記憶のかたまりのようなものがあり、それがそこで無化されようとしているように見える。

 

 私たちは写真プリントという物質を通して記憶、あるいは記憶のようなものと格闘しているのではないか。それは取るに足りないちょっとしたものであるかもしれないし、それがなくては生きていけないような重大なものかもしれないが、本当のところそれが何かは実はよくわからない。原田の収集した写真の一枚の何気ない表情に不安定な、あるいは不穏な感情を感じるのもそうした見る側の感情が絡んでいるからだと思う。

 もちろん写真をそのまま記憶に結びつけてしまうのには無理がある。ただそれが記憶を喚起することはたしかで、多くの映画でもそうしたシーンがあった。(たとえば「記憶の扉」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)。混乱する主人公の前に写真の山が提示される。写真は記憶を担保する)

 記憶はしかしイメージだけではない。それが言葉を伴うものとすると、写真プリントは右脳でつくられた記憶のイメージ部分のようなものでしかなく、それゆえにその当事者でないものにとって、それとともにあるはずの言葉や思念が宙づりにされた不安定きわまりないものでもある。それは右脳でつくられた亡霊のようなもので、言葉という相方を求めてさまよっている。そういう意味では先の写真洗浄は、元の持ち主に返されることによって記憶の言葉を獲得する過程なのかもしれない。

 

 しかし原田はこの亡霊たちとともに生きている。写真プリントの山に囲まれて、その人たちの一部が夢に出てきたりすることもあるという。

 記憶が無化される淵から這い上がり、押し寄せ繰りかえす写真プリントの亡霊たち、それが親しみと同時に得体の知れない感情を引き起こすのは、亡霊たちが私たち自身のすがたでもあるからだろう。原田はこことあちらをつないでいる。